心の荒廃・素直になるということ

心
素直な心の意義
F・S50歳さんは家族に問題が発生して相談に見えたのだが、ご主人を批判する言葉に終始して時間が過ぎていくばかりでなかなか本題に入れない。
この方の話を聞いていて思ったのですが、先ず、「素直になる」ということを端的にいうと、これまでのくり返しであってはいけないとつくづく思わされたのである。
私自身は1949年、第二次世界大戦が終わって日本敗戦の4年後に生まれておりますから戦争を知らない団塊世代の人間であります。
そういう意味で、最近では戦争とか敗戦とかいっても、全く体験していない人が多い時代となったわけですが、戦争体験者の話を聞きますと、お互い日本人は第二次世界大戦に敗れて極度の物資不足の状態に陥り、物の大切さを骨身にしみて味わってきたといいます。
そこで戦後長きにわたって、お互いは物資が豊かになることを一つの大きな念願とし、その念願の実現のために並々ならぬ努力を続けてきました。
この点については団塊世代の私も同じような思いで生きてきたように思います。
そしてその結果、今日では物の豊かさをある程度実現することができたわけです。
したがって今日のこの一応、物の豊かな姿というものは、これはこれで、一面まことに好ましい姿であるといってもよいと思いますが、しかし、また一面においては、その物の豊かさにくらべて、精神面というか、心の面の豊かさがいささか足りない、といった反省の声も出てきているようです。
すなわち、今日のわが国においては、お互いが自己の利害や立場にとらわれて、なにかにつけて自己中心的な考えや行動に走りがちであるとか、また他の人びとの存在を無視してふるまったり、罪を犯してもケロリとしているとかいったように、社会の各面において心の貧困、荒廃の姿がみられます。
そしてそれによって人と人との間には対立や争い、いがみあいといった姿が多くあらわれ、必ずしも常にお互いが心ゆたかに楽しく生活しているとはいえない面も多々でてきているのではないだろうか。
勿論、そういう姿は今日のわが国のみに限られたものではないでしょう。
人間の過去の歴史というものをふり返ってみると、洋の東西を問わずお互い人間同士がしばしば争いあい、幾多の流血をくり返してきています。
こうした不幸な姿というものは、いったい何が原因で生じたのかというと、もちろんそれはいろいろ複雑なものがあって一言ではいえないであろうが、やはり一つには、お互い人間が利害を争い、欲望にかられて、妬んだり、憎んだりした結果、そういう不幸な姿が生じたという場合が、非常に多いのではないだろうか。
そしてそういう姿によって、お互い人間というものは、いつの時代においてもしばしば不幸におそわれ、悲惨な状態に陥ることが少なくなかったわけです。
しかしながら、今日、私たちは、このようなこれまでの悲しく、愚かな姿をくり返してはならないと思います。
もっとお互いに心和やかに、そして自己にとらわれることなく、互いに尊重し、思いやりあって、スムーズに日々を送っていくという姿を生み出していくことが大切です。
そしてそれは、お互い人間にとって、決して不可能なことではなく、本来可能なことではないかと信じるものです。
お互いが素直な心になれば
それでは何故、そのような好ましい姿が現実には必ずしも常に表れてこなかったのでしょうか。
これにはもちろん見方考え方はいろいろありましょう。
が、やはりお互い人間が素直な心というものを見失っている場合が非常に多かったからではないのか。
つまり素直な心にならず、往々にして自己の欲望利害にとらわれ、また自分の立場主義主張にとらわれて物事の実相を見あやまり、他とのいらざる対立や争いをおこしてお互いに不幸な姿に陥る、といった姿がきわめて多かったのです。
そういうことを考えてみますと、今後、お互いが、これまでの人間のくり返してきたような好ましがらざる姿を少なくして、ほんとうに共々に和やかに幸せにくらしていくためには、お互いが素直な心になるということが極めて大切だとは思えないだろうか。
それでは素直な心とはどういう心であるのかといいますと、それは単に人にさからわず、従順であるというようなことを言うのではありません。
むしろ本当の意味の素直さというものは、力強く、積極的な内容をもつものではないのか。
つまり、素直な心とは、私心なく曇りのない心というか、一つのことに囚われず、物事をあるがままに見ようとする心といえるでしょう。
そういう心からは、物事の実相(本当の姿)をつかむ力も生まれてくるのです。
だから、素直な心というものは、真理をつかむ働きのある心だともいえましょう。
物事の真実を見きわめて、それに適応していく心だと思うのです。
したがって、お互いが素直な心になれば、していいこと、してならないことの区別も明らかとなり、また正邪の判別も誤まることなく、何をなすべきかもおのずとわかってくるというように、あらゆる物事に関して適時適切な判断のもとに力づよい歩みができるようになってくるのではないかと思うのです。
つまりお互いが素直な心になったならば、強く正しく聡明になるということです。
聡明になるということは賢くなるということです。
素直な心が高まっていったならば、賢さがしだいに高まってきて、ついには心の内にある神性仏性が、神の如く聡明に賢くなるというか、神のような叡智をもつことができるようになるといえましょう。
そのことによって、つねに判断をあやまらず、強く正しく行動できるような人間にもなってくると思うのです。
素直な心は人間の本然の心、お互いにそういうバランスのとれた執着のない、拘りのない心になるということが非常に大事だと思います。
そしてそのような素直な心というものこそ、お互い人間が本来そなえている、人間としての本当の心ではない かと思うのです。
お互い人間は、もともとこうした素直な心をもっているのではないでしょうか。
もしそうだとすれば、その素直な心を十二分にあらわして生活し、活動してゆくというのが、人間としての本来の姿、あり方でなくていけません。
人間というものは、本来、万物を支配活用することのできる偉大な心を頂いている存在であります。
故に、人間というものは、互いに相寄って共同生活を営み、万人万物いっさいの持ち味を生かしあうことによって、これをつねにより好ましい姿に向上させ、自他ともに身も心もゆたかな幸せな姿を十分に実現していくことができるでしょう。
人間は、そういう偉大な本質を与えられているということです。
それでは、そういう偉大な本質というものは、いったいどうすれば実際に発揮できるのでしょうか。
ごく筒単にいえば、お互い人間が万物の王者たるの自覚をもって一切のものをあるがままにみとめ、適切な処遇を行なって、これらをともどもに生かしていくところに、人間の偉大な本質というものが実際に発揮されてゆくということです。
あるがままに認めるとは否定しないことであります。
何ものも、何事も、否定されるものは無く、すべてが存在を許されたものであります。
その人間道というものを正しく力強く歩んでゆくためにはどうすればよいのかというと、それはもちろん、間道の意義なり内容というものを十分に理解し吟味して、その実践をたえず心がけてゆくことが肝要でありましょう。
けれども、そういったことの根底においては、やはり、お互いが素直な心になることが必要不可欠です。
つまり、お互いが素直な心になってこそ、人間道を実際に歩み、人間の偉大な本質を現実に発揮してゆくことができるであろう。
さてそれでは、その素直な心というものになるにはいったいどうすればよいのでしょうか。
いわゆる苦行といったような何か特別な修行が必要なのでしょうか。
もちろん、そういう苦行のようなことも、一面においては効果があるかもしれません。
しかし、大切なことは、まず、お互い自身が既にもともと素直な心をもっているということを、はっきりと認識するということです。
つまり、特別の修行をした特別の人だけが素直な心になれるというものではなく、この素直な心になることを常に心がけ、自分なりに工夫をこらし、実践につとめてゆけば、だれもが素直な心になれるということです。
なぜなら、もともと人間には素直な心というものが備わっているからです。
つまり、素直な心というものは、お互い人間としての自然な心、人間としての本然の心、そういったものだということがいえるでしょう。
日々、実践しなければ素直な心は育ちません。

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