間違った努力・ぶれない生き方
心はそもそも、ぶれるものだと言います。では、どうすれば悩みから解放され、苦しみを乗り越えられるのでしょう。
心がぶれない生き方・・・・「理想だけれど難しい」というのが実感ではないだろうか。
日頃の自分をふり返れば、腹が立つ、苦手なひとがいる、いきなり病気や災難に襲われる、胸の内には淋しさや不安、忘れたくても忘れられない過去がいつもつきまとう。
苦しい思いもする・・・・「さて、どうしよう?」と考えるけれど、解決策は見つからない。
正直なところ、心は自分でもどうにもできないところもあり、心は、そもそもぶれるものというのが本音だよとお考えの方もいるかもしれません。
そこからどう抜け出すか。この辺を検証してみましょう。
ひとつには「余計な分別はしない。」というのがあります。
人は目の前の出来事を「良いとか悪いとか」「好きとか嫌いとか」つい判断してしまいまがちであり、白黒つけたがります。
自分にとって都合が悪く、よからぬ現実に直面すれば、これはいけない、なんとかしなくちゃと「闘おう」としてしまう。
しかしそう考えれば考えるほどに、疲れや怒り、うずくまってしまうというのが常であり、苦しみはとても身近な出来事であろう。
間違った努力をしないために
こうした分別、判断に対して先ずは一旦、「待つ」こと。
分別、判断とは「我がつくりだす反応」であって、そこから始めるのではなく、ワンクッショッおいて「ありのままを見てみましょう」というのです。
そのための「待つ」なのです。
なにごとも最初は事実確認から。深呼吸して、落ち着いて、いま心に何か起きているのか感じとろうと心がけます。
①怒り(不満)がないか。
②求めすぎる心(欲や期待)がないか。
③無理に答えを求めて心が囚われていないか。
もし、これらに該当する条件が一つでもあるとすれば、それが苦しみの原因となっているといえるのです。
安心を他に求める人は、相手にしがみつきながら、相手を信じられないという悲劇を背負うことになります。
これが「求める心」が常に勝っている人の心理であります。
心が成長し、ぶれが無くなる為には、現実をそのまま、ありのまま認めること、否定するから苦しくなるのであることを深く知って、心に落としておかなければなりません。
心を和らげるためには、先ずは起きている事実の肯定からということです。
心の修養をしようと思うならば、静けさのなかで、自分の心の内側をひたすら見つめます。
これが「よく気づく」こと。
自分の心に強引さはなかったか、無理押しをしなかったか、偏った考え方をしていなかったかです。
一日五分でも、ひとり静かに心を見つめて、怒り、欲、妄想の三つがないかを確認してみる。
ぜひ試してみてください。
ずいぷんと心が健康になっていきます。
ぶれない人生の原理原則は心のバランスを取り戻すこと、それを維持することだといえるでしょう。
一つの思いをよりどころにして、そこにいつも立ち返ること。心の原点に立ち返ること。
右にも左にも、上にも下にも偏らない、客観的思考を忘れないことが、中道という原点であり、ぶれない心ということです。
そうはいっても、もともと人の心は揺れるものと言いたいでしょう。
でもその中にあって、いざいつでも戻るべき場所があれば安心できるのです。
「これこそは真実」「これは私にとって正しい」と思える心がけ。
その心がけを人生の指針とするのです。
心のぶれ、苦しみの源。これらを素直に観察することを心の習慣にしましょうというのです。
心をありのままに見つめるように心がけると、それだけで胸のざわつきが静まるものです。
では、人生の指針となる心がけとはどういうものか。
究極のところひとつです。
それは〈慈しみ〉の心を忘れぬこと。
自分の家族、友人、縁ある人々、これから出会うだろう人々、この世で生きているすべての命に「幸せでありますように」と思える心であります。
私たちは、ついつい自分の欲や不満に自分自身を閉じ込めてしまいがちです。
しかし、自分ひとりの思いにしがみついている限り、人生どこにも行けませんよ、命はもっと広く深いつながり(因縁)によって続いているのだから、その真実に思いをやって、自分以外のだれかの幸せのために命を活かしなさい、それが一番の幸福への方法ですよ、と言いたいのです。
ちなみに私自身のことを申し上げますと、及ばずながらも時間の都合がつく限りは、希望して相談においでになった方々に、出来る限りの対応はさせていただいております。(無償)
私は20代、30代の前半は失敗だらけの人生でしたが30代後半になってからようやく生活が少し楽になり、50代に入ってから人の為にということも考えられるようになりました。
人生で大切なのは正しい動機、心がけ。それは慈しみだろう。
その思いに立ってひとさまのために何かしらできることをという思いに到ったのが50過ぎてからです。
無理をして倒れて、ひん死の状態になり、あの世も往復したおかげで気づかせていただいたこともあります。
それが生老病死です。
自分を見失わない
心をつねによく客観的に見つめること。
慈しみの心から人生をスタートすること。
それだけでも、かなり環境も自分も変わります。
たしかに人生に悩みはつきもの。でも自分の心そのものが悩みに染まってしまったらもったいない。
心は何か起こるたびに動揺する、翻弄される。
しかし、そんな常にあって、「これだけは忘れないようにしよう」「苦しくなったらこの思いに帰ろう」という場所があれば、自分を見失わずに日々を乗り越えていける。
それこそが「ぶれない生き方」ではないでしようか。
最近お会いした17歳の女子高生。中学の時に三分の二は学校に行けず自宅での学習、高校生の現在も時々休みがちだった。この子は素直で優しい子です。
繊細な心も持っており、友達を思いやることを知っている子ですが、小学生の時に心ない女性教師の乱暴な言動に恐怖心をもっていたのである。
そして、似たような教師に中学生のときにも巡り会わせていたことも話してくれた。
そういった恐怖心が対人恐怖症的な精神状態にまで陥り、友情のスムーズに円滑さを欠いていたのである。
学校内でのカウンセリングを受けてはいたが、登校できずにいました。2回にわたって約3時間、この子の話をよく聴き、心の叫びをすべて受け止め、諭した。
「あなたのような優しい心をもった女の子こそ、学校にもクラスメートにも必要なんだよ。」と。
翌日、お母さんから連絡を頂いた。「娘が学校に行き始めました」と。
何かをこの子は発見したのだろう。
気づくことを「正念」と呼び、ありのまま悩みの源を正しく理解することを「正覚」といい、余計な分別をしないことを「捨る」、「手放す」と表現し、こうした良き心がけに立って幸せに向かって生きていこうと決意することを、「信をもつ」と言い表します。
ぶれない生き方とはこういうことを言うのです。
ぶれない生き方、は難しいけれど可能なのです。
今日を生きる。揺れる。ときに見失う。
でもどんなときも、正しい心がけを忘れない。
慈しむ。
思いやる。
よからぬ思いは気づいて手放す。
そうした思いに立ち返って、また新しい一歩を跏みだせばいい。
そうした日々をあとで振り返ってみたときに、自分が歩いた後には、案外ぶれのない自分らしい道のりができているでしょう。
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