大事な基礎

ここ数日、朝7時のごはん前に1時間ほど4坪の薪小屋を作る作業をしている。こういう時間が実に楽しい(^.^)。

鉄製の単管パイプをジョイントして組み立てていくのですがずいぶんと便利なものです。私のような素人でも時間さえかければ形になっていきます。

骨組みはきちんと直角に仕上げないと屋根に波トタンを張る段階で端々がはみ出したり不揃いになるから骨組みがとても大事。もっと大事なのは薪(まき)を積んだときに重量に耐えるだけの基礎土台にしないと沈んだり歪んだりするのでこれもまた勉強になります。

去年は簡単にやりすぎて薪を積み込んだら一冬で全体が沈み歪(ゆが)んでしまいましたので、今回は沈まないように下にブロックを敷いて、更に筋交いも補強したから歪むこともなく大丈夫でしょう。万全です。

材料費は単管パイプとジョイント金具と波トタンで3万円ちょっと、4坪だと業者に依頼すればおそらくゼロが一つ増えるだろう。心地の良い汗の結果です。

さて『信仰する宗教があります。』という人がいました。心にも体にも深刻な問題を抱えていた。

私はその人に質問します。『あなたの宗教では教祖を崇拝するように教わっているのですか?曼荼羅に向かって朝夕の貴重な時間を割(さ)いて読経(どきょう)を1時間2時間と行うように教わっているのですか?』と。その通りであるから返答がない。

ただ盲信狂信するから疑問を持つこともなく信じきっているというか従っているというか。このようなケースは非常に多いのです。ご存知とは思いますが、お経の中身は心の苦悩の原因やその解消の仕方、囚われない生き方を説いたものです。

それをいくら読み上げてもそれだけでは苦悩はなくなることがありません。

苦悩を無くするには生活の中で正しい教えの中身を実践することではじめて囚われないこと、執着しないことが身につくものです。読経で平穏な気分になれてもその時だけで麻酔を打ったようなものでしかありません。

その意味で本来の仏教の教えは読経することではなく、いかに日常生活を行うかにあるのです。

『神とは何であるか。』と言う事は『人間とは何であるか。』ということと同じように、いちばん最初に解明してかからなければならない事であるのに、この二つの事があやふやなままで信仰している所に日本人の信仰の問題点があるのです。

これでは基礎工事をしっかりせず建物を建てるようなものですから、歪んだりして後にトラブルが起こるのは当然の流れでしょう。

苦しみから逃れたくて、改善したくて入信した宗教ではあるが、一向に苦悩が改善されないままいる人、更に苦悩の種が増えて絶えない人、信仰が足りないと言われて更に読経三昧になる、金銭の出費も増える。

そのような信仰は、根本的に間違いがあるからで、いつもどこか不安定な心があることになります。何故なら不安定は正しくない基礎(根本)の上に発生するものだからです。

信仰しようとする人が「神とは何であるか」『仏とはなんであるか』と言う事を十分に知ろうとしなかったと言う事は仕方のなかった事として許せるとしても、一番不可解な事は、教祖自身またそれに続く宗教指導者たちが、「神とはなんぞや」と言う事をなおざりにしたまま、あるいは間違えた認識のまま信仰を説いている所に最大の罪があると思います。

キリスト教は一神教で、神とは宇宙創造の神のみであるという点でははっきりしていますが、佛教は無神論、無霊魂論の立場をとっています。

実際に仏教大学ではその様に教えています。果たしてこれで良いのか、この点はまたの機会に譲って述べる事にして先へ進みます。

日本神道は宇宙創造の神を説くと同時に八百万の神といって色々沢山の神様の名前が出てきます。山の神、水の神、土地の神、草木の神、雲の神また神社の神等々。

新興宗教、民間信仰に至ってはこれまた沢山の造語された神々の名前が出てきます。近年は一つの新興宗教の教祖が亡くなると、皆、神の名を付けるのが流行のようです。

本来、神でないものを神として信ずる事は、信じているその人はそれで正しいと思っていても、正しく信仰しているという自己満足、自己陶酔していることだけの事であって、それはやはり根本的には正しくないのです。

それは丁度、ニセモノの絵をつかまされてホンモノだと思っている事と同じです。ニセモノの絵などをつかませる人は詐欺罪という事になるのに、宗教の世界においては、ニセモノの神をつかませて、それで尚、有難がられているので不思議なものです。

日常の社会では、後でニセモノだと判ったら返品するなり弁償しろという事になって問題になるのに、宗教の世界では、ニセモノの神をつかませた人は平気でいて、つかまされた信者だけがいつも被害者として泣き寝入りしているという状態です。

何か一つ物を買うという時でも、色々吟味する人達が、いざ信仰という事になると、「良く効く神様だ」と言われて何の吟味もせずに飛びつくという事もおかしい事で危険この上ない。

その点、日本人ほど信仰について無関心、無節操な民族もいないと思いますが、一面において、そうであったからこそヨーロッパにおけるような惨酷な宗教戦争がなかったのだとも言えます。

またそうであるだけに「本当の神とは何であるか」という事が解かれば大して混乱なく正しい信仰に変える事が出来ると言う事になるでしょう。

実際のところは宗教団体に入信しなくても正しい心の在り方は学べるのです。

これまで信じてきた間違った信仰を絶つにはマインドコントロールの解放をする必要があるのですが、まじめな人ほど時間を要します。

しかし、やがて冷静さを取り戻せた時点で、これまでの愚かさと非を悔いて正しく生きることの何たるかを悟ります。

多宗教、多信仰の日本には営利主義に奔走する教団や教祖、果ては霊能者や巷(ちまた)の拝み屋、占い師などが非常に多い点は吟味していかなくてはならない。

『ご利益のある神様』『よく効く神様』と言われているところほど邪悪な蛇霊や地獄霊などが後ろに控えていて口を大きく開き待ち構えている。神は人間のご都合主義に関わるような存在ではないことを知らなくてはならないだろう。

そして宗教に関わっていない人より、信仰を持っている人ほど動物霊や地獄の人霊に憑依されていることが多いのは見逃せない問題点です。

このような憑依された人たちは、本来ならば信仰によって人間として成長していなければならないのに実は傲慢であったり、自己中心的であったり、信者間での競争意識が強く妬(ねた)みや誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)する場合が多々あります。

もうこうなると気の毒としかいえない状態ですが、本人が望まないことにはいかなる手立ても打ちようがありません。泥酔いしている人にしらふになれというようなもので、諭しようがないのです。

宗教はアヘンだと言われる理由がここにあります。

 

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Posted by kansindo