自然界の心
『天は慈悲と愛が意識の全てである。』と前回に述べて終えました。きょうはその続きを述べさせていただきます。
さて、ふつう慈悲とは、となると、なさけ、いつくしみ、思いやりということであろう。
人の苦労をみて、何とか助けてやりたい、苦労を取り除いてやりたい、楽にしてやりたいという心である。この心は自己を滅却した、自己の調和された広く拡大した心、高い境地を意味する。
例えばインドにおける釈迦は、この慈悲の心を人々に説いた。
『人間は、誰しも慈悲の心を持っており、この心があるからこそ、人間は人間としての資格と権能(悟り)が与えられているのだ』と。
慈悲の心は、善人にも悪人にも平等に、熱、光のエネルギーを供給するあの太陽のような行為を意味するからである。
では愛とは何か、愛も慈悲と同様に、天の光である。愛の根本も心にあるが、その働きは、助け合い、補い合い、許し合う寛容の心であろう。
愛は無限の調和を求めるものであり、それは人類愛、社会愛、父性愛、母性愛、または愛校心、愛社心、自然愛など、どこまでも広がっていく。
人間が生れて来た時は、人の子ではあるが、魂は神の子としてものであり、純白な心をもって、肉体に宿ってくる。それは人生への船出であり、すなわち出生、門出である。
人間は誰でも地獄界からは生れてくることはない。心の歪んだ人のそれは、この世に生れ出て後につくり出した執着であり、自我なのだ。
皆、前世の人生において為した不調和な想念と行為は、地獄界や幽界、霊界、天上界などで修正して生れ出てくるものだ。と我が心の師は教えてくれている。
『しかし、何%かの不調和な業は消えることなく、肉体を持ったときに出てくる』とも付け加える。
いずれにせよ、生れて来た時には、丸い善なる心を持ってくるのだという。
生れて来た環境、両親の教育、生活習慣、社会の思想などによって潜在している意識の自我が芽生え、やがて、その性格は善我と偽我を造り出してゆくということである。
このように人間は本来、善なる心でこの地上にでてくるのだが、成長するに従って、心を暗い想念の曇りによって包み、罪を犯してしまうのだ。
しかし、天は私達に反省という慈悲を与えている。この反省と言う慈悲は心磨きの最良のチャンスであるのだ。
誤りを犯しても、あの世では表面意識が90%(この世では表面意識が10%)も出ているため、善悪の判断がすぐつくのである。
そのため心に不調和があれば、すぐ霊体の光りの量が少なくなってしまうため、反省をして誤りの修正をしてしまう。
ところが、この地上に出てしまうと、表面意識は10%くらい、90%は潜在してしまうために、厳しい盲目的な人生を歩き、どうしても正しい判断を欠き、誤りを犯してしまう。
しかし、犯した不調和な想念と行為について、心から反省し、二度と同じ過ちを犯さないで、より光明に満ちた豊かな心を造り出すことによって、罪は許され心から消滅してゆくのである。
許すという愛の働きがなかったならば、私たち人間は永遠に救われることはないだろう。
人々の罪を許し、人々をして生きる喜びに至らせ、お互いに手を取り合い、助け合って調和へと高めていくことによって、地上の大調和という環境が築かれていくであろう。
慈悲を神仏の縦の光りとすれば、愛は人々の横の光りと表現できるだろう。
このように、縦と横の調和された慈愛の光りが結びあったとき、人は天の意識に気づき、発見し、己のなかの神性仏性を悟ることができるのである。
また、このように宇宙全体は慈悲と愛によって調和され、維持されているのであり、それはそのまま慈悲と愛の塊(かたまり)であるといえる。
人間はこの地上で生かされていることを忘れてはならないし、大宇宙自然界の心を基準とし、それに習い、秩序ある生活をすることが慈悲と愛のある生き方となる。
『法』という字は、サンズイに去ると書く。サンズイは水を表すことを考えると、水が去る、つまり、水は高きより低きに流れるのが自然で、人間の法(生き方)は、このように自然の秩序に沿って生きなさいということが言えるだろう。
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