逆縁と望郷
これまで毎日のように放映されてきたテレビ画面の東日本大震災情報は多くの人の涙を誘い私たちに何かを考えさせる。この何かは人夫々の立場にもあり、思いは様々であろう。 そして画面には入りきらない、また放映できないことのほうが遥かに多いのではないか。
今朝、私は震災により亡くなられた多くの方々の家族に思いを寄せてみた。
この様な出来事と死は悲しみの極致であることは勿論です。親を失った子供の姿はとても不憫で心が痛むのは誰もが共感するところであろう。また仏教でいうところの逆縁という先に我が子を失った方々の心情を思えば余計にやりきれなく胸がせつなく如何ともしがたい。
本来なら震災がある無しに関わらず、誰もが年の順に逝くことを暗黙のうちに願って生きているものでしょうが、被災された方々とお話しをする機会はあっても何も話すことはできない。
いま生きていることに御苦労さまとしか言葉をかけられないのです。
この世に生れた者の定めとして親しい人や愛する人との別れも避けられない愛別離苦があるとは言え、とても受け止めがたいものでしょう。
しかし、人間には忘却もある。 どれほど悲しみに打ちひしがれても、時の流れは人間の心を少しずつ静めてくれる。毎日、朝昼晩なく悲しみ、苦しんでいても、やがて前を向いて歩く時間が悲しみを一時でも忘れさせてくれる。
この一時が長くなれば、その分だけ悲しみから離れられる。そして月日の流れは、悲しみを少しずつ忘れさせてくれるでしょう。この忘れる時間のことは人間が神仏から頂いた恩寵(おんちょう、慈しみ、恵み)でもあろうと思う。
心には残っていても、そのことばかり考えては生きられないのも人間。
生きる道を歩くことで、悲しみを心に留め置かない時間を増やしていかなければならない。
今はまだ生きるためだけに生きる、被災の地はそれが精いっぱいであろう。
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