深遠な心の道

調和されているはずの心の中から、感情だけが表面に出てふくらんだなら、情緒不安定、怒りっぽい、自己保存的となり、心の安らぎが得られない。

相手から欠点を指摘されたりすると、すぐ頭にくる人々がいるし、実に多い。

自尊心を傷つけられた”といって感情的になり、忠告者の欠点を逆に探して自分を正当化しようとする。

このような人々は、自己保存の強い性格で、不調和で感情的な言動によって、相手の心に傷をつけてしまうのだが、本人は意に介さない。

しかし、自ら造った不調和な言葉や行為は、必ず自分自身に帰ってくることを悟らねばならない。

なぜなら、慈悲と愛によって忠告した心の美しい人に対して、不調和で感情的な想念行為をすれば、逆反射して怒りを持った本人にかえり、自分の心に強い反作用を起こすからだ。

いやゆる”人を呪わば穴二つ”である。

相手の人を怨み、妬み、神仏に対して相手の不幸を祈ることなども、その不幸の現象は自分自身にはね返ってくるということである。

このように、悪い想念行為の原因は、自らを苦難に追いこみ、どうすることもできなくなる。

正しい自己判断は、素直な心で他人の忠告を聞くことにある。

自己保存のための感情は、自己を傷つけるのみではなく、他人をも傷つけることを知らなくてはならない。

また本能だけが表面に出れば、自己防御、自己本位となり、万物の霊長としての本性を忘れ、動物的情欲の虜となりやすい。

愛を忘れた肉欲的本能は、人間社会を混乱に導き、己の心に苦しみの原因を造り出す。そのため、悟り(気づき)の道に入ることはむずかしい。

私達は、現象界(地上生活)の栄華に憧れ、世を楽しむことと、道を楽しむこととは全く別であることを知らなくてはならない。

過去に繁栄した国々がなぜ滅亡し去ったのであろうか。弱き者達を犠牲にし、権力者は増上慢となり、栄耀栄華の明け暮れ、動物的本能まる出しの肉欲的行為にうつつを抜かし、良心という仏性さえも失って自我我欲の権化と化したところに原囚があった。

心の修行を怠り、栄華を楽しむだけの人生を反省し、正しい生き方の道を自ら求めねばならない。

自ら求めたものが与えられたときの喜びは、何物にも代えがたいものである。

心の道は深遠であり、悟ればこれに勝る喜びはない。

この喜びを得るには、あらゆる諸現象に対して、正しく判断する理性、喜怒哀楽を表現する感情、神仏より与えられている本能、人生経験と智性、これらのものが互いに調和を保ち、心にとらわれのない生活をすることが必要である。

万象に対する感謝と報恩、そして施しの心を持って、真の道の実践生活をすること。

それによって心の窓は開かれ、自らの力で偉大な智恵の宝庫を発見することができるのである。

このとき、己の心に気がつき、私達は、魂の兄弟や、守護、指導霊と調和され、私たちがより良い人生を送れるよう、慈悲と愛に満ちた指導、協力がなされることを悟るであろう。

実在界であるあの世においては、この現象界(地上生活)の様相を、場所、時間に関係なく見ること、聞くことができる。つまり、素通しで見えているということだ。

このような能力は、実は、人間の誰にでもあり、太陽の熱、光のエネルギーが、地位、名誉、金持貧乏に関係なく、万象万物に慈悲と愛を平等に与えているように、自らの行為、想念が人々に対し、万象万物に対し、正しく為されていいく生活努力の中から心の眼は開かれるようになっている。

この生活努力の精神も、その根本は神仏より与えられた本能であり、衣食住は生活に欠くことのできないものだが、人類は気候、環境に応じ、適応した衣服生活の工夫を知っている。

肉体保存のため、動、植、鉱物のエネルギーを吸収することも知っている。

自分自身を自然環境から守る場所として、住居を持つことも知っている。

これらのすべては、本能の働きによるものである。

また、私達の経験してきた智性だけを心の表面に出した場合は、その経験を過信して、物ごとを判断しがちになることが危険に通じるといえる。

偏らないバランスの心を失った智性は、人類を不幸に陥れることを私達は知らなくてはならない。

未来を考えることなく発展した物質文明は、公害という大問題を造り出してきた。今は中国がその公害対策に追い付けないという厳しい状況下にある。

物質経済文明の大きな歪みといわざるを得ない。

しかし、私達は今、真の法則を知り、万象万物は相互関係の上に成り立っていることを知っている。

想念を中心として感性、理性、智性、本能のバランスが、常にとれている心の中の状態、それが安らぎの姿である。

愛も慈しみもここからしか発生しない。

理性は心の制禦装置であり、いかなる現象、出来事に対しても正しくコントロールできる自分自身にならなくてはいけない。

不調和で、感情的な想念行為は、相手に対しても良い霊域を与えることはできない。

私達は、心の安定と、明らかな知見によって得られる、動かない心の悟りが人生の大きな目的の一つであることを知らなければならない。

常に煩悩に振り廻されて無益な境遇に遊び、常に落ちつきのない不安定な生活と、騒いだ心の中にいる人々があまりにも多い。

そのために私達は、いつも生と死、物質と経済などあらゆる欲望の荒海にさ迷って、自身のなかの神性仏性を悟れず、且つ、困難にしているのである。

私達のほとんどの人々は、肉体を持ったら今度こそ業(カルマ)の修正を果たし、人間としての使命をやり遂げて帰ろうと誰も考えてきているのだが、悟り切れずにいる人々があまりにも多い。

転生輪廻の過程では、あるときは王者として大衆の上に栄華の暮らしを送って己の欲望を満たし、権力によって自己保存したため、やがて帰った暗い地獄で、人生で犯してきた罪を修正するのに苦しみ抜き、天上界へやっと上れる人もある。

そして天上界で反省し、今度は逆に貧しい人として生まれて懸命に働き、同じ境遇の人々を救うべく努力して目的を果たし、実在界(あの世)へ帰り光の世界で暮らすという経験を味わう人もいる。

人それぞれ、このように千差万別の人生を送ってきている。

私達は、常に、その心のままの人生を送っているのである。

そして、やがてはあの世にかえり生前の心のままに、あの世の段階へ進むのである。

この世においては、心が正しい法(生き方)を悟っていれば、煩悩に対しては理性が働き、常に想念行為に反省のブレーキが作用するため、誤りを犯すことが少ない。

このように、私達の意識の中心である心は、今までも私達に、あらゆる苦楽の人生を経験させてきたのである。

私達は、煩悩に支配されやすい心を、正しい生き方に習慣づけさせることが必要である。

安らぎと調和した自分の心を自覚するためにも、私達は不退転の勇気と決心でその法則を学び、気づかなくてはならないだろう。

この現象界(地上生活)の万象万物は、ひとときも休むことなく移り変わり、その位置にとどまることはできない。

また何一つとして自分のものは存在していないし、一的に借用しているだけである。

財産も地位も、名誉も、肉親も、また肉体も、この世を去るときに持って帰ることはできない。

すべてが、この現象界を修行して行く過程のものにすぎず、これが人生の事実である。

あの世へ持って帰れるものは、人生航路で経験した一切の善と悪、記憶された想念と行為である。

だから私達は、一日一日を最善の努力で悔いなくすごすべきなのだ。

常に反省する心は、人間を執着から離して行き、魂の浄化にもなるということである。

私達は、日常の生活の中から、怒り、そしり、むさぼり、愚かな心を離れ、一切の苦しみの原因を断ち切らなくてはならない。心の中の悪にとらわれないことが大切なのだ。

心中の悪へのとらわれから離れるということは、利欲、栄華に惹かれる煩悩を捨て、一念三千(自由自在な心)の心を、常に光の世界すなわち調和の世界におき、利害損得、情欲、地位、名誉などの執着から離れることである。

すべて、自ら求めることなく、自然な人徳によって与えられる人々は、己にきびしく、常に謙虚であり、誤りのない正法(偏りのない調和された生き方)を実践している人々といえる。

物質経済文明の高度成長によって、現代社会の人々の多くは、心を失っている。

私達は、足ることを知り、執着せず、調和された、正しい心をとりもどし、自我我欲の多い心と闘って、真に正しい心の文明を、物質文明の上に築かなくてはならない。

物質文明以上に心の文明を高めていかなければ地上破壊、人間破壊は続くであろう。

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