死後の世界Ⅱ

今回は今年の2月17日投稿の『死後の世界』に続く第二弾として記述します。
さて、あの世と死後の霊魂の存在を信じる人たちの多くは『家族が亡くなったとき火の丸い玉みたいな形で見た』とか、または『足のない幽霊みたいな形で存在するのではないかと思ってた』というところがある。
また様々な霊的な体験をしているためにあの世と霊魂の存在を信じるという人もいます。そんな中であの世と霊魂の存在に対しての捉え方もいろいろあるようだ。
ここで私の霊的体験を少し話してみます。私が体の酷使による過労のために倒れたときに救急車のなかでみた心拍数は120以上あって呼吸が思うようにできなかった。死を覚悟した瞬間だ。
入院せず自宅療養をし死線をさまよっていたときに見てきた光景は、あの世の誰の霊体にも地上の人間と同じように手足もあるということ。決して足が無いということはない。
死後の世界をかいまみた体験者達は、死を宣告されてまた生き返った人達や、或いは意識不明になってまた意識が回復した人達、病床にあって生き返った人たちで、一定の境界まで行って引き返して来た人達である。
危篤状態にあって『担当の医師が死を宣告したのが聞こえた。』『耳ざわりな音が聞こえ始めたその直後に生還した。』という場合もある。
また肉体から抜け出した霊魂には、すでに死亡している親戚とか友人の霊がすぐ傍にいるのがなんとなくわかる。
私の場合はある時点で、まぎれもなく現世とあの世との境目に近づいているのに気付いた。そしてこの世の光景とは違うということを確信する。
冬山の荒涼とした鉛色の雪景色の中を多くの人々が一列になって、なだらかな斜面を下っていく様子は死の谷に向かう人々の雪中行軍にしかみえなかった。みんなうつむいて表情がないのである。
私はその行進を丘の上から眺めていたがどうしてもついていく気になれず、みんなとは反対方向に向きを変えた。するとその瞬間に目が覚めた。これを境に体は徐々に回復に向かい始めた。
体が癒えていない私は歩くこともままならない状態でしたが庭に椅子を持ち出して座った。見るものすべて、風も太陽の温もりも、空気の匂いも肌で感じるもの全てが愛と暖かさに満ちた生命として心の底にまで響きわたった。胸がつまった。
私の胸の奥底で光がはじける。この光は言葉なくして心を満たし、これまで生きてきた間のことを全て「反省」するように促した。すると目の前に一生のことがパノラマのように映し出された。
ストーリーとしては2時間ぐらいの映画にもなろうが、その反省はけた外れの速度で行われる。全く一瞬である。瞬(まばた)きの瞬間といっていいだろう。肉体は3次元にいるのだが意識が4次元にいっているためにこんなことが起こる。
自分の一生の取るに足りないことから最高に重要な事までが、一つ残らず現われる。
私たちは一生のことをどのように反省し、調和したかによって、それから先の行く世界(あの世)が決まるのである。不調和な者は霊界には入れず幽界でしばらくは反省の年月を過ごさなければならない。
ここで、あの世は次のような世界にわかれていることを紹介しておきましょう。
大きく分けて如来界・菩薩界・神界・霊界・幽界・・・これらの界は、またそれぞれの心の段階にわかれている。一口に霊界といっても実際は段階がある。行先は私たちの心の段階次第で決まる。
人間には変えることができない宇宙の仕組み、摂理、秩序というものがある。
その意味から幽界は亡くなった人が最初に行く段階でこの幽界には21日の間いることが許される。故人はこの間に地上で関わった人たちに挨拶にいけるが、同時に心の整理をして娑婆に別れをしなければならない。
しかし、魂というものは、日ごろ心が不調和で不満や愚痴、怒り、嫉妬、傲慢、などの生活をしてきたものが21日ぐらいで気づけるほど簡単なものではない。
したがって拘り、執着、自我、これら業の程度によっては地獄で猛反省をしなければならない人たちがいる。罪として一番重いのは自殺です。
何故なら天から頂いた命を許されて地上に生かされながら自己都合で命を絶つ。これは最大の天への冒涜(ぼうとく)となるのです。
自殺以上に罪が重いのは人間の心を間違った方向へ先導したもの、つまり宗教指導者やその幹部たちです。現代の宗教はあまりにも御利益宗教(他力信仰)が多く相当の割合で存在している。
中にはまとまった金銭で依頼を受けて人を呪い殺すこと行う自称霊能者といわれるものもいます。間違いなく地獄でのたうちまわることになる。
普段、神仏の名を語り除霊をするという者が金のために他人を呪うことに加担するなどは本人自身が動物霊や地獄の人霊に憑依されている証拠である。生きてこの世で地獄を演じている哀れな人間です。
本来なら神仏の名を口にする者は金銭を授受してはならないが、そのことによって自身の霊格をおとしめることに気づいていない。欲のために目が暗んでいるだけである。
さて死んだ人の前に光の生命として任をもって現われるのは、主として菩薩界の人達である。菩薩界の人たちは囚われ執着が一切なく、人々のために尽くす愛と慈悲の心をもって働いている。決して見返りを求めることはしない。
上段階の霊が下の階層に現われると、下の階層の霊はそれを光としか見ることができない。
上段階の霊は下段階の霊を救う為に下段階に行けるが、下段階の霊は、その霊の意識が、上段階にふさわしくならない限り上段階へのぼることは出来ない。
幽界や地獄にいる魂にも救済の手は差し伸べられるのだが、しかし、拘(こだわ)りや執着、偏狭な心が強いため救済の手に応じようとしない者もいる。これは地上の人間にも言えることである。
どれほど苦しみの渦中にあっても偏った自分の価値観から救いの手を取ろうとしない者には愛も慈悲も徒労に終わるだけで全く気の毒としか言いようがないものです。
人間の死後の世界はその人がこの地上でどのような心で生きたかで決まる。不満や愚痴、怒りを心に持った者、人に対してそのような態度で接したものが、死んで天に昇ることはできない。
霊界以上に行くには人に見返りを求めない心づくり、執着を捨てた生き方をしなければ叶わない。
心に不調和のあるものが死んだ途端に成仏することはあり得ないことであり不可能です。
何故なら人間の魂は宇宙の慣性の法則のなかで生かされているのであり、この世で生きたようにあの世でも延長上に生きるからです。
これを心の傾向性(癖)といいます。カルマ(業)と理解していただいてもいいでしょう。
 

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Posted by kansindo