過去世より重要な現世のlife
過去世
万象万物は、瞬時も停止することなく循環を続けている。
私達も神理に従って転生輪廻をくり返し、現在は地上界に生まれて、魂の向上願って生活をしているのである。
意識の世界、つまり見えないエネルギーを支配している神仏の世界というように、あの世も意識の調和度によって段階がある。
神体といえるこの地上の現象世界も、あの世を通して循環がくり返されている。
あの世とは前世、のことで、一般的な呼名である。
現代と同様に、過去の世において肉体を持った時代のことを、過去世という。
私達は過去世、現世、来世と区分しているが、過去世に続いて前世から現世、来世というように、あの世とこの世を輪廻しては永遠に自分の魂を磨いている。
つまり私達の目的は、人類の心の調和、それによって神体であるところの地球の調和がなされ、地球の霊域オーラーがより浄化されるように努力することである。
反対に地上で争いごとが絶えなければその場は非常に粗雑な波動の霊域となって荒涼していく。
肉体的な生と死の循環を続ける私達の生命には、始まりもなく終わりもないのが実相である。
私達の意識は、心の調和の度合いによって、こうした過去世の経験を追憶することもできるのである。
これは決して夢物語りではない。
人間の一生は、日本人の平均寿命からいえば四捨五入して男性が80歳、女性が86歳と公表されております。
しかし、肉体をもっての一生はそうであっても、実際の生命活動はそんなに短いものではありません。
科学的ではない、非現実的だといって信じない方もおられるだろうが、少なくてもこのブログを訪問してくださっている方々は否定はしないのではないでしょうか。
実は、私たちの生命は、何億、何十億年の年輪を重ね、現在、ここに在るのです。
ただ、何億、何十億年の過去世は、潜在意識の中に沈み、容易に表面意識には出てこないのですが、これはこれでそうでなければならない意味があってのこと。
自分の過去世が大富豪の主で膨大な富と権力と名誉の栄華を極めていたことがリアルにわかったら、いま自分が置かれている、貧しく苦学している姿、環境に愕然として余りの環境の違いに不満をもったり、疑問に悩みやる気を見失ってしまわないだろうか。
反対に、過去世では貧困のなかで懸命に働く自分であったことを知った人が、今世で億万長者となり、欲しいものを自由に手に入れることができたなら、自分の心に驕りや傲慢な心がでてしまわないだろうか。
また、過去世において、人を欺いて陥れたり、詐欺を働いていたが故にその罪の重さに打ちのめされ、遂には更生することができずに荒んだ人生のままに終わった人間が、今世においては、自分自身の業ゆえに何度もチャンスがありながら他人によっていつも蹴落とされながらも必死になって頑張っているという試練にあるとしたらどうだろうか。
このような自分の過去を知ることによって『どうせ俺は罪人よ』と、今世で成さなければならない業の修正を断念するとしたら、これもまた知らなくてよい過去世を知ってどれほどの価値があるといえるだろう。
人はそれぞれにこうした過去をもって、今ここに生きているのですが、そうした長い年輪と、その短かい肉体生命としてのこの世の一生とは、比べものにならない開きがあるのです。
実は、過去世を知ることはそれほど重要でもなく、また必要なことでもありません。
現実の生活、生き方を全うせずに過去世のことに云々することは、緊急オペが必要な患者さんが手術台に乗っているのに、医学書を開いてどこが悪いのか調べてみましょうかと言っているようなものです。
私たちがいま為すべきことは、過去に拘ることでもなく、しかし、先(未来)のことを思い煩って苦悩することでもありません。
まして、自分の過去世を知ることでもありません。
自分の過去世は、自分がこの世の生命活動を終えてあの世に還ればわかることであります。
この人生を終っても地上生活が終わっただけのことであり、あの世にいけばまたあの世で別次元での肉体(光子霊体)生活が始まります。
調和した生活によって、やがて時期が来て心の扉が開かれたときに、霊道が自然に開花し、自分の過去世を知って、悪い業(カルマ)を修正することは、自身の向上になるであろうが、しかし、本来は自分の過去世を知るようにはなっていない。
仮に、過去世を知るようになっていたとしても、何故それができないかとなると、心が完全調和されていないが故に霊道の扉が開かれないということであり、そういった専門的な修業を過去世においても行っていないということがあるからだ。
ですから、私たちの過去世がどんな人であろうが、今生は今生であり、大切なことであることを忘れてはならないでしょう。
そして過去世以上に、今の世での人生の方が遥かに重要であるということを忘れてはならない。
前世の霊視とか、前世療法、などという言葉も知られてはきましたが、しかし、いきなり『あなたの前世は、高貴な士族の姫であり・・・・・・云々』と実しやかに断じて切り出すやり方は相当に危険要素を含んでいる可能性も高く気を付けなくてはならない。
そのことによって、その人が心の向上を図ることができたかどうかとなると、何らの進歩もなく、ただ一方的に前世占いをしてお金を使ったというだけの話しでしかない。
最近は、資格商法によって得た資格を以って行う療法が増えてきましたが、大切なことは、はじめにきちんとクライアントの話を聴き、状況把握をする姿勢が流れとして行われているかどうかであって、セラピストが説教じみていたり、自分の価値観を押し付けるのは論外です。
さて、きょうは過去世と現世に関することを述べていきます。
向上
向上とは、正しい心の在り方に適った想念と行為が、今生においてより心を進化し、物質経済や目先の諸現象に惑わされない人間となることかと思います。
たとえ過去世が立派な人であっても、現世で肉体を持っている人間がその価値を見いだせないで、自我我欲や目先の諸現象に惑わされていたなら、低俗になるばかりではなく、心の向上などできないだろう。
私たちが神仏の子たる自覚を持って生活しているかいないかによって、今生におけるその人の価値は大きく異なってくる。
そして、仏教的な表現として使われる如来や菩薩といわれるような、どれほど崇高な魂の人間でも、一旦この世に肉体を持ってしまうと、普通の人間として修行していくのです。
そのため、環境や教育にも影響され、経済的な苦しみや人生の悩みにもぶつかって人生に対する疑問を持ち始める。
かつてお釈迦様といわれたゴーダマシッダルタ、イエスキリストをみてもわかうように、この世での間違いを犯すことを回避するために、僧侶や学者にはあまり生まれてこない。
釈迦牟尼仏は武家の王子として生まれ疑問のなかで出家をされましたし、イエスキリストも宗教家の家には生まれていない。
魂のステージが高い天使ほど自分に疑問の出る環境、修行できる場を選定しているのである。
ゴータマもイエスもモーゼも、僧侶や学者ではないことを私達は良く知っている。
末法の時代になると、真実の理に手が施されてしまう。
その中の小さな枠に絞られてしまうことを恐れるから偉大な光の天使でさえ改めて苦楽を経験する場に出る。
そして偉大な光の天使(如来、菩薩)たちはこの世を去るまでに一応は悟って帰る。
しかし偉大な光の天使たちの場合、ただ悟って帰るのみでは使命は果たされたことにはならない。
死の近くで悟ったのでは遅すぎるのだ。
五体が健全なうちに、自らも神理であるところの宇宙の法則と心の真理を悟り、調和のある人生を、他の人々にも教えなければならないのである。
古来より今までも、何人かの如来や菩薩が現世に出た。
しかし人生の苦難に逢着し、使命を果たさず、環境に甘えて生涯を送ってしまう人もいたであろう。
日本にも、昔から神理を説く使命を持って生まれてきた光の天使が多くいる。
五世紀(西暦4001~500年)の聖徳太子、小野妹子もそうである。
日出ずる国に神理を伝える使命を持って、天上界あの世から肉体を持って出、小野妹子は聖徳太子の命によって隋(ずい・中国王朝)の国へ留学し、仏教の偉大さに触れ、帰国して日本国民の心に信仰の道を教えた。
八世紀には伝教大師や弘法大師も出生し、伝来した仏教の中より自己の使命を悟り、中国へ留学し、仏教の真理を、さらに奥義を学び、帰国後仏法を日本に広めたのである。
伝教(最澄)は、天台山(中国三大霊山のひとつ)において、法華経を学び、その当時の御題目は、ほう れん げん さん がん じゅ「法 范 華 僧 伽 呪」と唱え、声の波動に乗って心の調和を計ったとされている。
法とは、宇宙の神理、悟られた方の教えであり、蓮華とは心を表現しているのであり、僧迦とは、法に学び実践している者をいう。
私達の人生を渡って行く肉体は、眼を見れば眼ヤニ、耳を見れば耳糞、鼻を見れば鼻糞、歯を見れば歯糞、皮膚を見れば臭い汗、口からは痰、大小便の排泄、というようにこの肉体から綺麗なものは何一つとして出てこない。
このように汚い、泥沼のような肉体舟であっても、泥池に蓮の花が咲くように、私達の肉体を支配している意識(魂)の中心の心が宇宙の法を悟って生活し、その法を順守したならば、宇宙の法との心と私達の心は調和され、真の安らぎが生じて天国の境涯に達する。
というように、私の心の師は、私のような仏教を全く知らない人間に対しても解るように教えてくださっている。
この法蓮華僧伽呪の御題目は、伝教が日本流に改め、妙法蓮華経と訳したようで、地水火風空の大自然と、私達との関係、色心不二の法を、天台教学の一環として比叡山を中心に弟子達に教えたようである。
伝教大師の過去世が、中国の隋(ずい)の時代に漸江省(せっこうしょう)の天台山を開かれた、天台智頭(ちぎ)という僧侶であったことを、我が心の師は教えておられる。
これは、日本の伝教大師という僧侶が、過去世においては中国の天台山を開かれた天台智顗という魂のステージが如来界の僧侶であったということであります。
このように、光の天使は使命をもってこの地上世界に、国境を越えて出生し、法を説き残しているということがわかります。
そして、伝教大師(最澄)は後に現在の滋賀県大津市坂本本町に比叡山を開かれた。
「天台智顗の仏法は、諸宗の明教なり」と道を求める人々に教えたようです。
天台が中国に出た当時も、仏教が学問仏教に変わっていたことを非常に悲しんで、自ら仏教の精神は行ないが伴わなくてはならないと思い、天台山に居を構え、心と行の実践をされたそうである。
このような考えは、伝教大師の菩提心の表れとして「わがために、仏を作るなかれ。我がために、経を写すなかれ。わが志を述べよ」と、遺言された言葉にうかがいしることができる。
伝教大師は、「神理を説く人こそ国の宝である」といわれ、また遺言でもこういったそうである。
「未来の仏が、この世に出られるまで、法灯を絶やすべからず」しかし、その後の弟子達が、寺を守るという名目で作られた僧兵については、どれほど残念に思っていることであろうか、それは伝教大師に聞くしかない。
我が心の師の守護霊がいわれた言葉、
「いつの時代においても歴史的な物的証拠というものが優先されがちであるが、それはあまり大事なことではない。
なぜなら、神理に関してあまり過去のものにこだわりを持つと、つい智と意が先に出て、自己を失いやすくする。
自分を失っては、神理を悟ることはできない」
たしかに、過去の史実にとらわれ、文献をたよりにしていると学問的探求に片よってしまい、心という自己の個性か失われて行く場合がある。
学問知識、すなわち智に過ぎては、ものの本質を見失ってしまうということであろう。
自然科学の分野においては文献も非常に参考になっているが、神理に対する問題は、その時代の心ない権力者によって、歪められてしまうことが多いこともまた事実であろう。
仏教も各国を経て伝来しているだけに、その国々の従来の思想がまじりこんでいる。
そのため、仏教にしてもキリスト教にしても、原典にもどるとことが非常に困難なのである。
神理は、大自然の法則であるから、年代の新旧などにはかかわりがない。
古いも新しいもない、不変のものである。
誰の心の中にも、厳然として、神仏の子としての神理は記録されているのである。
ただ、偏った見方、すなわち偏見によって事の真実を見失っているだけである。
いわゆる煩悩という心のスモッグのことだ。
神理は自分自身の心の中にあり、自己の心に正しく忠実に生活をし、常に中道によって我欲を捨てた生活を続けて行けば、誰でも、神仏の子としての価値を自覚せざるを得ない。
弘法大師、空海というお方は菩薩界の魂で心眼を持っており、病人に憑く憑依霊が良く分かったために、加持祈檮をなされたようです。
親鸞もまた菩薩界の魂を以って下生した人間であり、当時の戦乱の世では『南無阿弥陀仏と唱うれば罪びとも救われる』と説くことによって無学文盲の民百姓や民衆に仏法を広めるしか手段がなかったのであろう。
本来、神理は変わるものではないが、説く人の智と意によって変えられる場合は多い。
しかし、変化した神理とは、「本来の力」を失うものであり、人間の心は、自己保存の観念によって神性仏性を見失って行くものであるだろう。
厳密にいうと、『南無阿弥陀仏』と、他力本願のみで一切仏に任せてしまう、という考え方は、己を失ってしまい本来の人間の内に輝ける価値を発見することはできない。
自力努力の中にこそ、神理があることを知るべきである。
しかしその当時、戦乱の時代の人々を救うには、このような方法でなければ、死の世界を信ずることも死の恐怖を脱することもできなかったものと思う。
このように、光の天使が肉体を持って出てきても、その生存のうちに己を知るということはとても困難なことだったのである。
菩薩界の魂といえども、肉体を持つと、このように自身も過去世が分からなくなってしまう。
たとえ上段階光の指導霊でも地上に降りれば悟ることはむずかしいのである。
それだけにこの地上界はリスクも大きいだけに、修行場としての大きな価値が同時存在するといえるであろう。
使命を果たすということは、聖人になることでもなければ生き神さまになることでもない。
人々の心を心とした、人間の本来自然の道へ導くための努力、これが必要なのである。
迷える人々に与える修行の糧、それは愛であり、慈悲であって、太陽が万象万物に、熱、光のエネルギーを平等に与えることと同一なのである。
そして神は、決してその代価を求めることはない。
陰徳、この行為こそ真実のそれなのである。
あの世、すなわち4次元以上の世界へ帰ってから、ああもすれば良かった、こうもすれば良かった、と思っても過ぎた時間は何人たりとも取り戻す術がない。
私のように勉強嫌いだった学生は論外であるが、学問にしてもそうです。
欲が出てきてから、「ああ、子供のときにもう少しやっとけば」などと考えても手遅れである。
人間というものは、毎日の生活がいかに大切であるかは知っているのだが、ついおろそかにしてすごす人が多い。
菩薩界、如来界の魂の人間であっても、この地上での肉体生命が終わってあの世に帰るとき、多くは必ずもっと多くの人を救ってくれば良かったと残念がると心の師に学んだ。
なぜなら、肉体を去った私達は、地上界にいたときと全く同じ意識の状態で、光子霊体という体を持っている。
だから人間生活の過去か、その当時の一切の想念と行為が明白に現われる。
そして犯した罪は自分で償わなくてはならない掟があるから残念がる。
自らを裁くのである。
幽界の入口でそれをやる。
神仏は裁くことはしないのだ。
しかしそれは神仏の子としてむしろ当然であろう。
人間の価値を忘れて不調和な人生を送っている人々は、心に安らぎがなく、暗い想念に覆われている。
この現象界を去るときも、同じ暗い想念の世界に落ちて行く。
心を浄化するまではその地獄界で暮らすしかない。
これも、自分自身で作っていた世界であって、責任転嫁はできない。
転嫁すれば苦悩は重くなるばかりである。
だから幸福を掴む近道は、過去世で犯した業をしっかりと確認して、過誤のない人生を送ることである。
そのためには、常に反省する心を持って、自分の悪しき性格に打ち克つことが必要である。
反省の冥想は、心を浄化する。
そして、自身の心が調和されることによって内なる心は目覚め、神仏の光によって覆われてくる。
そのときは生もなく死もない、生命の輪廻転生を悟ることができる。
私達は、ただ肉体という現象面を考えているため、それが無に帰するとすべてが無と考えがちだ。
しかし肉体の支配者、魂は、この世とあの世の環境に適した衣の脱ぎ着替えをするにすぎない。
そのことを悟ったならば、生命の不変を疑うことはできないであろう。
今日のあなたは、来世のにおいては過去世となって地上に降りた魂の兄弟の背後から守護する使命を担うだろう。
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