旅する魂の妙薬

道私がブログ記事を書くときにいつも思うことは、人生の悩み苦やしみを避けて通る方法を述べたいのではなく、試練や逆境に敢然と立ち向かい、それを克服し、より一層に力強い人間となっていただきたいと願っていることです。
逆境や苦労こそが財産です。
そして究極、潜在的な心の財産は地上のいかなる宝にも優るものです。
それは一度発見して身につけたら、物やお金を失うようなこととはまったく違います。
それがどれほど素晴らしいことか、あなたは想像がつくだろうか。
その素晴らしい宝珠を得るためには苦難から何かを学び取るように勤めることです。
人間がこの世で生きるということは、皆それぞれに何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。
それはもちろん楽なことではありませんが、しかし、心の宝珠はそう容易く手に入るものではありません。
もし、容易く手に入るものであれば苦労することもないでしょうが、楽して手に入れば心に驕りが生まれるというのもまた人間故の弱さでもあります。
痛みと苦しみ、苦悩の真っただ中にある時はなかなか得心がいかないものですが、しかし、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとってはいちばんの妙薬なのです。
私たちが生まれたときから生涯を共にする守護霊という存在は、いくらあなたのことを思ってはいても、あなたが重荷を背負い悩み苦しむ姿をあえて手をこまねいて傍観するしかない場合があります。
目の前の厳しい試練から教訓を学び取り、霊的に成長してもらいたいと願うからです。
知り得たことには必ず責任が伴います。
特に霊的な事を知り得た者は責任を持たなくてはなりません。
例えば霊的な能力には人それぞれに様々なものがあり、その力にも高低があります。
本来どのような能力であろうが、それを使用することで金銭的な利益を得ることは私自身は邪道だと思っております。
何故なら、その能力は一個人の能力ではなく天のエネルギーであり守護指導霊の協力においてのみ発揮されるものだからです。
ですから、この世的なメディアによる知名度などは、全くその人の魂のステージや能力、あるいは人格とは必ずしも合致するものではないといえるでしょう。
実際に、私のところに相談に見えた方で、テレビに出ていた東北の有名な霊能者のところに相談に行ってきましたという方が数人いました。
著書も出版し有名人だから私たちの悩みを解決してくれるだろうと期待して行ったというのだが、会ってみたら「あなたはそういう態度だからいけないのよ。」と開口一番に言われて話す言葉も失って、わずか五分で「はい。これで終わりです」と言われて帰ってきたというのだった。
「あの人はテレビでは柔和な顔で言葉も穏やかで優しいと思っていましたが実際は会ってみると上から目線で叱られて帰ってきただけで何も参考になりませんでした」と憤慨していた。
実はこれとほぼ似たようなケースが何件かあったのだが、やはり話を聞けば同じような印象のよろしくないことを話すのである。
金額は特定していないとは言っていたが10分で一万円おいてきたと話していた人もいたし、5千円という方もいました。
お金の問題はさておいても、相談者に対して、ものの10分や15分でどれだけの話し合いができるだろうかと不思議でなりません。
往々にして、私は「見える、霊視ができる」といっている人の場合、そのことを前面にして話を切り出す傾向にあり、相談者の言い分や状況の把握がおろそかになっているように見受けられます。
私の場合は、最低でも一人に一時間は取り、状況によっては90分になることもありますし、稀には2時間という場合もあります。勿論、無償です。
相談者のおかれた状況を把握してそこから根本的な原因を究明し、相談者の物事の考え方、解決するための方法、タイミング、等々十分に話し合うにはどうしてもそれくらいの時間が必要になります。
要は、効率主義をとるか、相談者のために中身を選択するかの違いということになるだろうか。
さて話を戻しますが、魂というものはいったん視野が開かれれば、悲しみは悲しみとして冷静に受け止めますが、決してそれを悔やんだり、引きずったりすることがなくなってくるものです。
燦々(さんさん)と太陽の輝く穏やかな日和だけでは人生の深さや機微、教訓はなかなか身に沁みてきません。
魂が目を覚まし、それまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲垂れこめる暗い日や、嵐の吹きまくるような荒ぶる天候の厳しい人生でなければならないのです。
地上の人生は所詮一つの長い闘いであり試練です。
闘いという意味は自分のなかにある過ぎたる欲望であり、邪悪な想いに打ち勝つということです。
人間はいつも魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってもよいでしょう。
魂の癖
魂にはありとあらゆる種類の長所と欠点が秘められており、一つの傾向性となって表面化して翻弄されます。
本能と感情と理性と知性のバランスが基本となって個性が表面化します。
本能が過ぎた個性は異性に執着し物に、金に、食に貪欲になります。
感情に過ぎた個性は怒りやすく、沈みやすく起伏の激しい性格となります。
理性が過ぎた個性は冷たく他を批判し排他的な言動があらわれます。
知性が過ぎた個性は何かと自己主張の虚栄心と言動から反感を買います。
すなわち人間は最初から人間として地上に誕生してはいますが、進化の段階で動物的なステージの低い本能的欲望や感情もあれば、人間の個性的存在の源泉である神性も秘められております。
そのどちらが勝るのか、その闘いが人生でしょう。
地上に生まれてくるのはその試練に身をさらして己の魂をステージアップするためです。
人間は絶対的存在の分霊を受けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには、やはり厳しい試練が必要なのです。
人生のなかでは運命の十字路にさしかかるごとに右か左かの選択を迫られます。
つまり苦難に厳然と立ち向かうか、それとも回避するかの選択を迫られるわけですが、その判断は個人の自由意志に任されています。
その時の自己都合や欲望によって道を選択すれば衰退の人生となるであろうし、この選択をすれば厳しい日常が待っているとわかっても、敢えてその道を選択すれば必ずや心の充足を得られる人生となるでありましょう。
しかし、回避すればそのことがクリアできていない宿題として生涯にわたってその人の心魂についてまわることになります。
もっとも、自由といっても完全なる自由ではなく、その時点においてその人の置かれる環境という制約があり、これに反応する個性気根の違いによっても選択の仕方が違ってくるでしょう。
気根とは、資質であり、受容能力であり、備わった基盤の程度のことです。
物事に対して客観的に判断すれば正しい選択ができるのに、欲心をもって目先の利益やプライドや自己都合で判断すれば誤った選択をして迷路の人生に苦悩することになります。
地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスは実は誰にでもあらかじめ用意されています。
そのチャンスを前にして積極姿勢を取るか消極姿勢を取るか、滅私の態度に出るか自己中心の態度に出るかは、その人自身の判断によって決まるということです。
地上生活はその選択の連続と言ってもよいでしょう。
次回は4月21日「地上生活の目的」について述べてみたいと思います。
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