救えない人の霊現象

宇宙1狂った読経三昧

私たちが生きていく中で必ず通る道に「苦悩」という心の問題があることは誰もが経験することであろうから、敢えて私が言わずともわかってることでありましょう。

心の仕組み、働きというものは、何の滞りもなければ爽やかな気分でいることができますが、一旦、何かしら問題を抱えてしまうと、そのことに心を向け過ぎて悶々として心身が苦しくなってくるものである。

こういう時に自然のなかに身を置くことで心が洗われ、癒されることが多いのは何故であろうか。

ただ単に緑ということばかりではなく、大自然の営みに隠されている法則、真理ということに心で触れるからではないのか。

やはり、人間が安らぎを覚える大自然の営みには宇宙の法則が背景にあり、私たち人間はこの大宇宙の法則、すなわち真理というエネルギーの働きに沿った生き方をすることにあるのではないだろうか。

しかし、宗教でいうところの真理となると、人々の勝手な注釈により、永い歴史的過程の中で、泥にまみれてしまったところが多いのである。

注釈、それは良い。智、情、意の真理にもとづいたものであれば正しい教えは失われるものではないから良いだろう。

しかし現実はどうか。仏教もキリスト教も、本来の姿を変えられ、日々の私達の生活に溶けこんではいるが、あまりにも形式化され、行事化されてしまっている。

ある相談者は言う。『私のお姉さんは、読経をするために時間をつくる。そして幼い子供に目を向けず、遊びに出てあげることもなく、家の中にこもる時間が多い』と。

相談者のお姉さんは不眠症に悩まされ、手に包丁をもったり、窓から飛び降りて自殺をしようとしたりするといい、とにかく時間をつくって一日読経三昧だということだった。

読経をすれば眠れるということなのだが、自分が読経することによってあの世の霊達が読経を聴きに来て救われると言い、この相談者のお姉さんはとんでもない間違いを犯している。

この宗教の指導者は「南無阿弥陀仏」と唱えよ。読経をせよ。信仰すれば病も救われると言っているようだが、この相談者のお姉さんは救われてはいない。

相変わらず不眠症は続き、自身の心は不安定で、人のいう言葉には一切の耳を貸さず、ヒステリックになりやすく、まったく不調和な心であることも一因となり、この家では地縛霊がちょくちょく徘徊し、ラップ音が絶えず、物が勝手に動いているのだ。

仏教界においても、このようなご利益主義に変貌してしまった事実はたくさんあり、読経ひとつにしても智と意の解釈にかたより、その真髄である情、すなわち心が失われているのである。

あるいは檀家というお得意さんの上にあぐらをかいた葬式仏教となり、あるいは観光事業となり、あるいは賽銭とりの拝み仏教と化しているのである。

彼らは一体、そうした仏教の在り方について疑問を持っていないのだろうか。

私達もまた、形式化したその一日行事の中に埋もれ、心の故郷を失い去っている。

現代社会の歪みは、物質経済至上主義に陥り、いちじるしい物質文明の発展に伴って、人々の心、個々の支配者である仏性、すなわち神性を忘れ去っているところにあるといえる。

私達は、何の目的で生まれてきたのか。

平和な、幸福な人類の環境づくりを、心を中心に行為するというその使命さえ忘れて、現象的物質文明に押し流されてしまっている。

人間本来の心を呼び覚まし、肉体に乗っての人生航路の進路を、正しい目的、すなわち己の内にある羅針盤に合わせなくてはならない。

正しい進路こそ正しい法なのであり、古代に説かれた心の在り方、本来の人間の在り方に帰ることではなかろうか。

仏教は、大乗だの小乗だのと、後世の人々が理論変更をしてしまったとき、すでに多くの人々の心はおろか、己を救う力を失ったといえよう。

いかに仏教の理論を知っていても、心を失った仏教は、すでにゴータマの教えではない。

それは狂った人の心、闘争と破壊の循環でしかないのである。

私達は今こそ己の内にある心(仏性)に目覚めなくてはならない。

こうした考えを、原始仏教だ、とする人があるなら、私は次のように質問したい。

「東から登る朝日の出は、古代インドのゴータマ・シタルダーの時代と現代とどこが変わっているだろうか、ガンガーの流れは変わっただろうか」と。

残念なことにガンガーの流れは、古代からずっと、上流クルー・コサラー、アバッティー・ヴァチー、その支流と、パタリーガマーに集まって印度洋にそそいでいるのである。

流れは逆にはなっていないのだ。

太陽も東から出て、西に沈んでいる。

変わったのは古代の精舎、伽藍だけであろう。

輪廻転生は、誰の意識にも記録され潜在している。

そのことは、誰も否定することはできない。

ただ、自分が気づかないだけである。そしてその潜在意識の扉を開くことのできるのは、神でも仏でもない己自身だということだ。

己自身が一切の苦しみから解放され、正しい法(生き方)を実践することによって心の受け入れ態勢か整えば、過去世で学んだ無限大の智恵が湧出し、調和のとれた安らぎの世界を、己の中に再現させ得るだろうということである。

一切苦とは、生、老、病、死の問題である。

何の目的で生まれてきたか

何故、病気になるか
何故、老化するのか
何故、死ぬのか
この思考の中から、人間の苦悩が生まれてくる。
私達はこうした苦悩の原因を追及することにより、人間のなすべき道は、また調和のとれた安らぎを得るには、どのような思念と行為によるか、ということを解明せねばならない。
先ず、「なぜ私達は生まれてきたか」その原因を追及してみよう。
私達のほとんどは、こういう。「望んで生まれてきたのではない。両親が勝手に作ったのだ。だから育てることも両親の当然の義務である」
しかしこの考えは間違っている。私達は、神性仏性を心にいただいた子として、己の魂を修行して磨き、神殿ともいえるこの地球上に、調和のとれたユートピアを築かなくてはならない、という使命を持っている。
そのために、現世に適応した肉体という舟を、天は種族保存の本能とともに、私達に与えているのである。
肉体先祖、というつながり、これは天の慈悲と愛が造り出したものであろう。
だが人間は、肉体を持ってしまうと互いに約束を忘れてしまう
私達は、次元の異なるあの世において、自分が造り出した過去世の業を修行によって修正し、ほとんどとり除かれた段階で再び生まれてきた魂なのである。
神仏の体であるこの地球上で肉体修行するために生まれてきたといえるのです。
私達は、あの世において、魂の兄弟たちとの相談、また高次元の指導霊の計画によって、申請されて出たものだといえるでしょう。
心で思うことによって物は造られるように、この世の現象はあの世の投影だということがいえるのである。
ただ生まれ、ただ死んで終わりということでは決してない。
この機関は、非常に精妙に造られており、一寸の誤差もない仕組みによって組織化され、この現象世界である地上におけるコンピューターなどより遥かに精妙な設備が設置されているのである。
従って私達か調和のとれた両親の間に生まれるのも、また不調和な環境に生まれるのも、すべて自分自身がその環境を選んだものである。
しかもその環境にかかわりなく、すべてあの世で打ち合わせずみ、すなわち合意が成立しており、肉体を戴く約束に従って生まれてきたということだ。
もちろん縁がない人々と親子の約束はしないように、必ず転生輪廻の永い過去世の深い因縁によって、その関係を結ぶようになっている。
そうしたことを偶然だと思う人々が多い。
しかしこの世の中に偶然というものは一つとしてない。
すべて原因と結果、作用と反作用、その仕組みが、綾なす織物のように、精妙に関係を作っているということを知らなくてはならない。
両親となるべき人々は、このように天上界の精妙な仕組みによって結ばれ、またあるいは不調和な男女を自ら選んで修行の場を決定するのである。
女性の周期は、太陽系の太陽、地球、月の自転、公転の輪廻と同様に、月の周期と同じ約二十八日に排卵日が循環してくる。
それは肉体的な体温差によってその現象を確認することができる、卵子の周期性と異なり、精子の場合は自由に調和されて時間の影響を受けない。
子供に縁のない人々もあるが、それも天上界において約束した仕事があるために現われてくる現象である場合があり、やはりその目的に沿ってそれぞれの役割を果たさねばならない。
それは自分自身が縁に触れて悟り、実践することであり、ときには過去世において関係の深かった子供を、自分の肉体を通さずに育成するような場合もある。
養子縁組によって我が子とするなどは、まさに縁生、というべきである。
同時に天上界では大人であった生命も、母体に己の肉体を確認すると、天上界において、魂の兄弟、また友人達と送別会をやり、自分が地上に出たなら今度こそ多くの人々を救ってこよう、またある者は医者となって哀れな病人を救ってこよう、などとそれぞれの希望を持って別れてくる。
そして母体に入る。子供として母体に入ると、天上界での表面意識の90%は潜在意識と変わり、表面意識は10%となってしまう。三ヵ月頃になると、五体の構成が形造られるための各細胞の核分裂は進んで行き、母体からの栄養を吸収して日一日と体が整って行く。
このときに、母親のほうに気持が悪くなったり、吐き気を催したりする人々が出る。
この状態の原因のひとつには、子供の意識や守護霊と、母体の意識との波動が異なる場合に起きる現象である。
こような場合はお母さんが意識的に心の調和を図るとつわりが治まるのである。
特に子供の過去世における食物などの影響が母体におよび、従来その母親の未経験の現象が起こるのもこのような原因による。
例えば、普段はかんきつ類を食べないお母さんが、子どもを宿してからみかんを好んで食べるようになった事例や、下の子を宿した時には普段あまりお肉を食べないでお魚中心なのに急にお肉を好むようになったという事例などでわかるように、これは宿した子供の魂の波動を母体を通じてお母さんが感じ取っているということである。
また逆に、両親の不調和な因果によって胎児の五体に変化が起きる場合もあり、肉体的先祖の因果によって五体に欠陥ができることもある。
胎児は次第に各機能が発達し、やがて十月十日、すなわち九ヵ月と二十日の月日を経てこの地上の空気に触れると同時に、己自身の魂の修行の第一歩が始まる。
縁あって両親から戴いた肉体を意識(魂)の支配下に納めて、苦楽の人生へと歩みだすのである。
守護霊達が安堵の胸を撫でおろすときであり、未だ乳房を吸う本能のみで、肉体の成長を待つ以外ないときだが、このようなことは例えあの世の高次元の光の大指導霊がこの現象界に肉体を持つときも同じである。
インドの古代、ゴーダマ・シッタルダーは、マヤの脇の下から生まれ、七歩歩んで「天上天下唯我独尊」といったという伝説があるが、あれは後世の人たちがゴーダマを神格化するための作り話しである。
またイエスには、マリヤの処女懐姙説などがあるが、いずれも神のように祀り上げてしまった人間の偽説であると思っている。
一般の子どもと同じように育てられ、その環境や現象に無常を感じ、苦悩の中から悟っていったということで、これは人間の全てがそうしなければ到達できない、修行しなければならない、この地上世界の定めなのである。
地位、名誉、金、とさまざまな物を持っている両親を選ぶのも、貧乏人を選ぶのも、自分自身がすべて定めて生誕してきたことであり、地上現象界では、その中で自己の心の浄化に努力して行くべき、これもまた定めであり、努力の集積が大切なのである。
やがて子供は成長し、眼耳鼻舌身意の六根が作用するようになると、自我が出てきていろいろと親を苦労させる。
成長に比例して、この頃から煩悩は日増しに大きくなり、自己保存、自我我欲の想念を造り上げて行く。
このような煩悩があるから、自然に私達は善悪の判断を知り、人間としての在り方をも悟って行くのである。
子供達は、環境や親のしつけによっていろいろと精神面も発達して行くのであるが、未だ煩悩の動きは小さい。
やがて自己意識か発達し、親から離れるようになると、神仏のことや感謝の念すら忘れ去って行く青少年が多くなり、学校では学問の詰めこみ主義、智のみ発達して心の教えを受けることは無に等しい環境におかれ、持って生まれた神性仏性を忘却してしまう。
年頃になると、恋愛、結婚、そして家庭、子供、隣人など、不調和な要因はますます多くなり自ら苦しみの原因を人生の上で作るようになる。
そして、エゴイスティックな生き方を多くするようになり、結果に対して責任の稀薄な人間と化して行く。
そうした人生の中で、精神的な悩みや生活の苦しみを逃げるため、ある者は形式的宗教に自己逃避し、ある者は過激な思想に走る。
狂信、盲信の果てはいずれも己の意識を自縄自縛(じじょうじばく)し、組織の細胞と化したり、自己の脳細胞までも狂わしてしまう結果を招くようになる。
自分が生まれてくるとき、あの世で約束したことなど上の空となり、神仏などはナンセンスと物質経済のみを追い求めるようになって行くのが人間である。
煩悩の愚かさといえよう。
やがて、一時の自己満足の夢破れ、人生に無常を感じたときはすでに遅く、この世の卒業式となり、自己の業の上塗りをして、またあの世に帰って行く。
既に時遅しである。
このような地上の現象界を末法の世という。
己の本来の仏性を遂に悟らずに、この世限りの生命だからと思いこんで悪業を重ねる。
しかし事実は、すべての決裁は自分自身でしなければならないということである。
たとえあの世に帰ってもである。
人間は、生存の間に、そのことをきびしく悟らねばならない。
名誉、地位、金が何になるのだろうか。大地主や王侯といえども、それは現世のみで通ずること、死んであの世へ、それらを持って行くことは不可能なのである。
ここを良く考えねばならない。
持って行くことのできるものは、自分の私利私欲に包まれた、黒い想念の光子体というあの世の乗り舟と、苦しみ悩みを満載した己の魂のみである。
地獄で暮らすのも趣味というならそれも良い。
しかし、たかだか七、八十年の人生での失敗が、四百年、五百年にも匹敵する、あの世の地獄界で反省しなければならない結果を考えるならば、やはり線香花火に似た地上現象界での生であるとしても、無駄にすごすべきではあるまい。
思えば人間とは愚かな者、といわざるを得ない。人を信ずることができず、己をも信ずることのない人々がいかに多いことか。
まことに現代とは、現代人とは、いかに末法の末期的な姿を示していることか。
更に私自身が自らを律して調和していきたい。
※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。

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