純粋な魂の書

今朝はダウン症の書家である金沢翔子さんのお母さん、金澤泰子さんのコラムを紹介させていただきます。金澤泰子さんと翔子さん

(書家) 1943年、東京都生まれ。明治大学卒業。 ’90年に久が原書道教室を自宅に開設。雅号は金澤蘭鳳。娘・翔子さんとともに書道の普及に努める。翔子さんとの共著に『翔子』、『魂の書』等がある。

観念的に考えることに慣れていたという金澤さん。翔子さんによって、の想いが根本的に変わったと言います。

不満、不安、嘆(なげ)きなどない 娘・翔子は知的障害を持つダウン症者である。

翔子は社会の構造が解からない。数列もよく分からない。いわゆる科学的な知性は持たないので、地位やお金や、効率の良さ、合理性を求める社会に巻こまれない。

現実からはるか離れた地平にいる翔子は、実にゆっくりと幸せな日々を生きている。

知的な遅れがあるために学歴社会に入れない。私は長い間そのことを嘆いていた。

しかし、学歴の外にいたことは、実はとても幸いなことであったと、後になって分かってきた。

学歴社会に入れないと試験を受けないで済む。

試験を受けない翔子は競争心が養われなかった。

競争心がないと、人を羨んだり、妬んだりしない。

その上に、社会の構造が解からないので偉くなりたいとかお金持ちになりたいと思うこともない。

この様に俗世に欲望のない無心な翔子の心には「人に喜んでもらいたい」という愛が満ちてくる。

その思い はとても優しく、豊穣(ほうじょう)。

翔子が想いをめぐらす範囲は、せいぜい明日のお昼ごはんぐらい迄なので、未来を想って不安になったり恐れたりしない。

将来に希望を持ったり目標を持ったりしないし、過去を振り返り悔んだりなどもしない。

目標や計画を持たないということは、その刻その刻を百パーセントの絶対時間に生きていられる。

その時空はじつに豊かで、素晴らしい。

予測的な不安がないのでいつもわくわくと楽しい。いつも二コニコしている。

翔子には「出来ない」ということは無いのです。今していることがやりたかったこと、今、手に入っているものが欲しかったものなのです。

その世界を想ってみてください。不満や不安、嘆きがないのです。

翔子の世界は、いつもその時、その場で満ち足りているので、とても豊かで平和。

そんな思いで生きている翔子の創り出す書に、多くの方が涙を流してまで感動してくださるのだと思う。

花に、月に「ありがとう」翔子はいつもピンクの名刺を持っていて、声をかけてくださる方の誰にでもその名刺をお渡しする。

どんな方にでも。政財界の偉い方にでも、町の路上生活者にも、誰にでも同じよに……。

先日、撮影の時、大勢の人が集まってくれた。そこにはご夫婦に連れられた犬がいた。

翔子はその犬にも、丁寧に両手を添えて「どうぞ」と言って名刺を渡した。

犬も神妙にその名刺の前にしばらく座っていた。周りの人たちは爆笑した。

しかし私はその中で一人、感動して佇(たたず)んでいた。

翔子の平等意識は凄い。犬も人間も、偉い人も貧しい人もみな同じなのだ。

翔子は花に手を合わせ、暗い夜道を見守ってくれる月に「ありがとう」とお礼を言って玄関に入る。

翔子にはあらゆる所に、命がありありと見えているのでしょう。

一輪の花だって私の心を動かすことができる。

月にも風にも犬にも人間にも石にだって……どんなものでも人の心を動かし得る力がある。

それなのに私はあまりに観念的、科学的に考えることに慣れてしまっていて積極的には動かない、話もしない、意思も表明しない(と思い込んでいる)、それらが我々の心を動かすということを忘れていた。

木も山も石も小犬もわたしの心を動かしてくれるではないか。

この翔子が犬に丁寧に名刺を渡す光景で私は命への想いが根本的に変わった。

私の平等の考えなどとても陳腐であったと反省する。

美しさに魂を見る

ただ綺麗とか美しいと思って愛でていた景色に命が見えるようになった。

その美しさに魂を見ることができるようになった……。どれほど多くのことを翔子は私に気付かせてくれたであろう。

そんな翔子の個展には沢山の人がいらして感動してくれる。泣いている人も多くいる。

私は四十年余り書をして生きてきたけれど、私の書にはいまだに唯の一人も涙を流して感動してくれた人はいない。

私は鍛錬と努力を重ね、その果てにあまりに観念的になりすぎていたのだろう。

きっと翔子のようにその瞬間に生き、障害によって育まれた純粋度が保たれた魂の領域で書く字が感動を呼ぶのでしょう。

只々、誰かに喜んでもらいたく、只々、その時の想いを無心に書く。そんな書に、私の晝などかなう筈がない。( 2012年6月29日投稿 胎教Ⅰ参照ください。)以上。ここまで。

子どもに指導する翔子さん

相談者の話しを毎日聞かせていただいていただいているなかで最後に行き着くところ、きっかけは何であろうが、相談者の苦しみの殆どが過去にこだわり、先を考えすぎて不安感や恐怖心に苛(さいな)まされている。

ああしたい、こうしたいという思いは持っているが、「あの時こうだった」、「人がこうだから」、「この先が不安だから」、「人がどうみるか怖い」、「認めてほしい」といって同じところでグルグル回っていて前に歩を進めようとはしない。

一番苦しいのは自分であるはずなのに、その苦しみの原因である拘りを捨てきれないでいる。まさに執着そのものである。

知性が働くからこそ人間であるのだが、反面、この知性が偏ったときに不必要なことに拘り、執着し、自らを苦しめることになる。

自分と他人を比べて苦しんでいる人、嫉妬に狂って苦しんでいる人、自分の境遇を嘆いて苦しんでいる人、何事も人のせいにして苦しんでいる人、こういう人たちの苦しみに共通するのは相対的な価値観である。

一言でいえば他人の目を気にしながら自分の考えを持つ傾向が強いということだ。

また、拘りも執着もバランスを欠いた欲望の範ちゅうであり、この欲望の強い心では自分が苦しむだけではなく、人に感銘を与えることも、慈しみも、喜びも、愛も為すことはできないだろう。

得ることよりも捨てることを実践していきたい。

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