万物の霊長に課せられたこと

我が家の北側裏に積もった軒下の雪もすっかり溶けて、ふきのとうも花ひらいています。このふきのとうを細かく刻んでサッと湯通しして味噌と油炒めする。
これを熱いご飯にのせて頬ばると、程よい苦みが口に広がり、味噌と相性が良く、実にうまい。春一番の恵みにありがたいと思う。
ふきのとう
 
だが、春の山は天気も変わりやすく、強い風とともに雨が横殴りでガラス窓をたたくときもある。しかし、この雨が大地を潤し、草木を育てる恵の雨です。
この地上は、さまざまな物質的な縁によって、あらゆる現象が起こる環境である。
少しだけ物理科学的な表現になりますが、物質は、外から加わる作用によって変化を起こし、仕事をなし得る能力、つまりエネルギーとなり、いっときたりとも今という時間と形を保存することができない。
物質は常に変化し、とどまることなく形を変えていく。これを仏教では色即是空、空即是色といい、諸行無常とも表現している。
ここでエネルギーについてもう少し噛み砕いて表現して述べてみましょう。
ここにマッチ棒があるとします。だが、マッチ棒だけでは火がつかない。硫黄やその他の物質を塗布した箱に摩擦をしてはじめて火が点きます。
燃える元である物質はマッチ棒に付いてる火薬ですが、火をつける外力に当たるものが摩擦をするマッチ箱の塗布部分です。
この地上は全てにおいてそういう世界である。その仕事をなし得る能力を、科学ではエネルギーといっています。例えば、石炭の塊(かたまり)一個の質と量には相応のエネルギーがあります。質量のエネルギーです。
一方、生物には、意識が同居しています。意識世界のエネルギーは物質のエネルギーの次元より精妙な次元であり、これを意識界ともいい、一切の万物万生を造り出す働きさえも支配している世界である。
おわかりだろうか。意識エネルギーは物質エネルギーの次元より遥かに微細で波動が精妙だということだ。
すなわち、その意識エネルギーの世界を4次元、あの世ともいう。
人によっては、5次元、6次元、7次元、8次元、超次元とも言っている場合があるが、それは意識の次元が違うという崇高な意味を含んだものと解釈してよいだろう。
4次元以降の多次元世界と表現する場合もありますが、この場では、総じて4次元と表現しておきたい。
私達は、この非物質的な次元のあの世で、縁者や友人などとのコミニケーションの末、両親となるべき肉体の提供者との縁が約束され、この地上で、その約束、目的が果たされることになる。
つまり、この地上に生まれていることも、環境や両親を選ぶことも、一切自分でなしたということである。
この地上に適応した肉体に乗って、地上に出てくるのだが、それは苦楽の人生における修行を目的とし、如何なる試練、逆境も超えると決心して下生してくる。
盲目で、手さぐりの人生、この人生で、より豊かな心を造るとともに、新しい学習をすることが、目的の一つなのである。
同時に、世界の人類が大調和することによって叶う平和な地上の建設、それが万物の霊長である人間に課せられた使命でもあるのだ。
その私達の肉体という船の船長は、永遠に変わらない意識であり、魂である。
もうこの時点で、魂があるとか、ないとかの話ではなく、あの世が存在が有無の次元ではなく、万民が肯定して自分の生命の謎に取り組まなくてならないだろう。
意識の中心が〝心〝で、この心が実在の世界であるあの世に通じていることは否定できるもではない。
人間は皆、実在する天上界から生まれてくるときは、誰も皆、丸く広い豊かな心を持っていた善なる者達だったのだ。
禅の教えのなかには「本来善悪無し」という公案(教え)があるが、これは、悟れば相対的価値観から離れて、善とか悪の区別がないほど執着がなくなり、ただ円相の心になるという意味である。
しかし、現実には善も悪も存在する。
何故なら、生まれた環境や習慣や、教育や思想、また友人の影響など、五官(眼、耳、鼻、舌、身)にふれる一切のものによって、心に執着が生まれ性格が変わってしまうからだ。
それだけ肉体五官に依存して生きているということの証でもある。
ところが、この肉体五官に囚われた生き方をするほどに真の心の働きを見失うことになるのだ。
私達の意識は、生まれたばかりときは100%潜在されている。それが、成長するに従って表面に出てくるようになり、やがて表面意識として思考するようになってくる。
そして心のなかには″本能が芽生え、五官をとおして〝想念〝につたわり、″智性″が発達して″感情″の表現となるのである。
これによって、自らの″意思″が、はっきりと表示でき、自己の立場を表現できるようになって行く。
しかし、表面意識が飽和状態になっても、意識全体の約10%くらいしか外へ出ないため、本当の自分の心を知らず盲目的な人生となるのだ。
あとの90%の意識は無意識、つまり潜在意識となって内在しているのである。
氷山
 
これは自然現象としての海に浮かぶ氷山のようなもので、全体の殆んどが海中に潜在し、海面上に現れているのが一部分であるのと同じようなものだ。
私たち人間の肉体に宿った魂の創りと仕組みもこのように、宇宙大自然の摂理のなかにある存在であるが故に、自然の法則の中で生きるように仕組まれているのである。
その人間を、あの世の次元から守護霊や指導霊達が、常に温かい心で見守っている。
私たちがそのことに気づこうが気づくまいが、彼らはあの世での約束を違えることなく貫いているということだ。
そして、常に執着する心から離れ、丸い心で、苦しみの種を蒔かずに、中道を心の物差しとして生活している人々には、このような守護霊や指導霊が、直接、霊感的な現象によって指導し、平和な生活を送ることができるように教えてくれるのである。
反対に、自分のことしか考えず、欲望のままに、品性もなく感情むき出しに生きている人々は、暗い想念におおわれ、邪悪な者たちによって支配されるから、常に心の安らぎがない。
不平不満の人生を送り、豊かさや心のまろやかさを失って、心に大きな歪みを造ってしまうのだ。
それでも私達の心は、自分に対してだけは嘘をつくことができない。
人間の心はそのようにつくられているからだ。他人には嘘をつけても自分には嘘をつけない心、それこそが本当の自分であり、真我というものだ。
実在する世界であるあの世の真相は幽界、霊界、神界、菩薩界、如来界、宇宙界と上段界にいくにしたがってその霊囲気は、波動がこまかく、しかも調和されて行くにしたがって精妙になっていく。
これに比べ、現象の世界であるこの地上の波動は、固体的で不安定で弱い。これはスピリチュアルな意味に限ったことではなく科学の話でもある。
そのため、地上においては、原因と結果の出方(輪廻)が遅く、正しい判断がむずかしくなるのである。
原因と結果の出方(輪廻)が遅いということの意味は、個体の存在のなかでは結果が出るまで時間、期間がかかるということです。
ちょうど、種を蒔いて芽が出て、葉が出て、花が咲き、実がなるまで一定の期間が必要なようにである。
あるいは、心に思ったことが形を成して完成されるまで時がかかることでも分かるであろう。
その点、あの世では固体化したこの世とは違い、心に思ったことが即、現象化するのですから、ごまかしや嘘が即そのまま表れることになるのだ。
だから、あの世の邪悪な心の人間は、形相までが奇獣の如く忌まわしい姿となって現れてしまう。
これが3次元のこの世と、4次元のあの世の違いであり、物質界非物質界の違いである。
潜在されている90%の意識は、転生輪廻の一切を記憶しているが、なかなか思い出すことができない。一般的には無理である。
それは心が不調和な想念の厚い曇りにおおわれて、次元を超えた通信がさえぎられているからということと、潜在意識の扉を開くことは鍵をあけるように簡単なこととは次元が違い過ぎるからだ。
自分の心の扉を開くのは自分の心しかない。
心の境涯で行くあの世の次元
この地上は、善と悪が混合して存在しているため、区別することがむずかしい。悪を為していても悪と思わず、または悪を隠し、他人に指摘されると逆切れして人に危害を加える者さえいる。
悪や、間違い、過ちを区別することができるのは、正しい生き方の基準を学び、実生活に生かす以外にないといえよう。
あの世では、善と悪が霊囲気によってはっきりと別れ段階が定まってしまう。
それは、心の清浄さや、心の広さがすべてを定めてしまうからだ。
例えば、ペットボトルのなかに、灰を少量入れて、水を注いでみよう。時間が経つに従って、澄んだ水が上になり、濁りはコップの底に沈澱する様子がはっきりと見えます。
最後には澄んだ水と濁りがきれいに分離する。
このように、あの世の仕組みも、その人の心と行ないが、正しい生き方の法則にかなった生活をしたかどうかで、心の光の量が異なって段階が定まってしまうのである。
つまり、あの世では善者と邪悪な者との居住段階がわかれているのに対し、この世は善なる者も、邪心を持った者も同じ地上で、同じ社会で暮らしている。
濁った部分は沈殿し、澄んだ部分は上になるという自然現象の真理だが、私たちの死後はそのような境涯の世界に分かれて暮らすことになる。
これと同じように人間の知恵や知識によって、その位置が定まるのではない。
魂の曇りが多ければ下の階層に居住するし、拘り、執着がなく澄んでいれば上の階層に居住することになる。
何度もいうが、肉体がなくなったあの世では心の状態によって自らが居住する階層を決定しているだけであり、神が裁いているのでもなければ、閻魔さまがいて選り分けているのでもないのだ。
また、この地上生活における地位や名誉、あるいは経済力のあるなしによってあの世の居住境涯が定まるのではない。
あくまでも肉体の船長である心の支配者、すなわち自分自身の心の境涯が濁っているか澄んでいるかによって決定するのである。
地獄行きも極楽行きも、自らの善なる心が、人生の一切を裁いたということだ。
肉体の支配者こそ、永久不滅な己の魂なのである。
死はすべての終わりではなく、両親から与えられた肉体との別離にしかすぎない。
だが、この肉体に執着すればするほど死への不安感、恐怖心は強くなるだけである。
肉体は、この地球上に住む以外に必要はないし、あの世に持って帰れるものではないのだ。
その肉体に執着する意識が強ければ強いほど心の苦しみは強くなるのである。
心の窓が開かれれば、きびしい地上生活であっても、生きている喜びは無限にある。
心の窓が開かれるということは、毎日の気づきのなかにある。
何故なら、それは、魂の兄弟達や、守護・指導霊が、常に私達の人生修行に力添えを惜しまずに協力してくれているからだ。
更に、心の窓が開かれるとは、一切の執着から離れたときに観えてくる生命の有り難さ、そして万象万物への感謝、それである。
感謝は心に思うだけではなく、その心を日々の生活の中で行動にすることで完成されていく。
完成はひかりであり、その道のりもまた光である。
行即ち光といえるであろう。
信仰をもつ者に伝えたい。
手を休めて祈る必要はない。為すべきことを祈りであるが如く為せばよい。
そして、何を成したかではなく、どれだけ愛をこめたかである。

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