心の毒と心疾患
動物は、口から食べ物を入れて体の中で消化した後、いらなくなったものを肛門から出すことで健康が保たれている。簡単にいえば、口からおしりまでは、1本の管(くだ)でつながっている。
ところが、人間は不必要なものまで心に溜めこんで病気をするのである。
1本の管の途中に、胃や腸があって食べ物をこなごなにくだいたり、食べ物の栄養を吸収したりしています。
しかし、人間を動かしていくためにはこの1本の管だけではなく、心臓や、肺臓、肝臓、腎臓、膵臓、胆のう、脾臓、膀胱など、たくさんの内臓の働きが必要です。
それに、体をささえるための骨、そしてそれを動かすための、筋肉がまた必要です。
人間は、熱い、冷たい、痛い、などを感じることができるが、これは身を守るための痛覚神経があるためで、体中のあらゆるところの神経が脳につながっているからです。
こういう体のつくりは、イヌやネコ、ウシやウマもほとんど人間とかわりません。ただそれぞれの形や働きが少しずつ違っているだけなのです。
人間がほかの動物と一番ちがうところは、医科学的な見方をすれば脳かもしれません。
体はそれぞれの臓器の働きによって機能していますが、その臓器を支配しているのが神経であり、その神経を支配しているのが脳です。
しかし、人間の体はこれだけでは決して機能しません。
脳を支配しているものが存在するのである。
魂(心)である。
人間の脳は、ものを考える、想像する、創造する、悩む、過去を考える、先を心配する。というところがかなり発達しているからですが、しかし、これは単に脳の作りが違うというだけの問題ではないのです。
他の動物とは決定的に違うもの、それは魂(心)の違いです。
人間の魂が動物に宿ることはありませんし、死んで動物に生まれ変わるものでもありません。
人間は人間として何度も生まれ変わり輪廻転生を繰り返しているのである。
ものを考える、想像する、創造する、悩む、過去を考える、このようなことのできる人間ですが、先を心配するが故に、そのことに執着、即ちこだわると心が病み始め、やがて肉体が正常な機能をしなくなっている人たちがいる。
心の不調和、心の病が肉体の病を引き起こすということを知らなくてはならない。
例えば、うつ病、パニック障害、過呼吸、閉所恐怖症、広所恐怖症、摂食障害(過食症、拒食症)、自傷行為、統合失調症、強迫性障害、等々の精神疾患によって体調が思わしくなくなる場合が実に多いのです。
特に、うつ病、パニック障害、過呼吸などは連動性があり、パニックからうつ病を発症する場合もある。
私は殆んど毎日のように、このような人たちの話しを聞き、そして心の在り方をお話しさせていただいている。
人の精神、肉体をもっとも不安定にする想念は、必要以上の拘り、愚痴、怒り、足ることを知らぬ欲望、即ち自我といえましょう。
いずれも自己保存に深く根ざしているからです。
拘るが故に自分を弱いものとみる。こだわるが故に他人の目を気にしていつも心を苦しくさせている自分、拘るが故に他人の言動を批判する自分。
愚痴は本来の清浄な己を否定し、人間疎外感と孤独を生み、他を裁く言動と怒りは破壊を意味し、足ることを知らぬ欲望は、自己を失わせる最たるものといえましょう。
精神(心)と密着した私たちの肉体は、思うことがただちに現象となって現われます。
笑いや、副交感神経の優位な精神状態は、血液の循環をよくし、胃や腸の活動を活発にさせます。
反対に、怒ったり、悲しんだり、自己嫌悪感や、卑下する心は心臓の運動や睡眠をさまたげる要素をつくり出してゆきます。
想念の在り方いかんで、 いっさいの肉体的な諸現象がただちに現われてくることは、誰しも一度ならず、経験しているところではないでしょうか。
一方、怒ったり、悲しんだりして、食欲が減退し、睡眠がとれないとすれば、仕事や人間関係の判断まで狂ってきましょう。
つまり、こうした想念は、心の平衡を失わせ、精神まで不安定にしてゆきます。それが長じては心の病にまで発展してしまうだろう。
心が不安定になれば、家庭や職場での協調関係がうまくゆかず、敵を作り、嫌われたり、こうした状況が長びけば、やがては仕事も行き詰まり、病気や災難を誘発します。
こういうように、想念は、その人の心と肉体に敏感に反映してきます。
いうなれば、想念は、ものをつくっているのです。
想念は、もともと精神活動の一つです。
しかしその精神活動が中道を失うと、目や耳や口を通して、肉体中心の業想念に支配されてきます。
自分が正しいと言っている人が実は間違っていることに気づけないほど気の毒なことはない。
それが自我であり、業想念の為せる生き様である。
業は、ウソのつけない自分の心と、天から与えられた正常な肉体まで汚してしまうことになり、目的と使命を担ってきた今世の自分の運命、天命を狂わせ、新たな諸々の原因(業因)をつくってあの世に還ることなります。
今世の原因が、今世で清算(結果)されればよいのですが、清算されないときは、あの世に持ち越し、来世で、そのおさらいをしなければなりません。
これは、読者が知っていようが、知らずにいようが、否定しようが、真実であることには何らの変りもない。
つまり、もう一度今世と同じような環境の下で修行し、己の魂をテストしなければならないのです。
はっきりいうならば、大抵は、原因と結果の堂々巡りをしてしまいます。
いま苦悩の渦中にあるならば、他人のせいにすることを改めて、自分の心を万遍なく省みることです。
人類、二千年の昔も今も、心の面ではそれほど進歩がないというのも、こうしたところに原因があります。悪循環からなかなか抜け出せないのです。
悪循環の最たるものは何かといえば、愚痴と、怒りと、足ることを知らぬ欲望です。
この三つを称して、心の三毒といい、業想念のなかでも、もっとも悪い原因をつくります。よくよく心しなければなりません。
※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。
ディスカッション
コメント一覧
拘りがいつまでたっても消えないのは、それが、ある面では、世の中を発展させてきたからではないでしょうか。
貴族の横暴に対しても内面の平和だけを念じる人ばかりだったら、フランス革命は起こらなかったでしょうし、その後の民主主義の出現はなかったのではないでしょうか。というのは、世のかなの人全員が、愛に目覚めるということはないし、優しい人でも自分が知らないことには、理解を示せないからです。
問題が続くのは、内面の平和、足るを知る気持ちから来る行動と、外側の社会の発展(物質的だけではなく制度的、権利的に)の為にしなければならないこと(たとえば体制との闘いなど)とは、相反することがあったのではないかと思います。そういう過去の歴史があるからこそ、「足るを知る」だけで済むのか?という疑いの気持ちは消えないと思うのですが…。ただ、社会的に大きく変化する時、個人個人の内面が成熟していないと、社会が混乱に陥ると思いますので、内面の平和に到達することを軽んじる気持ちではないのですが…。
考えてみました。
愚痴がでた時に、これは必要なものかどうか考えてみる、怒った時に、これは必要な怒りなのかどうか考えてみる、不足を感じる時、これはそうすることが必要なのかどうか考えてみる…自分にはそれしかできそうにありません。
愚痴もでず、怒りも出ず、批判の気持ちも起こらず、もっとこうであればとも思わない…そんな生活は、本当に理想的なのか、そこからして分からないのです…。
こんちには。
最近こちらのサイトを知り、過去の記事もいくつか読ませて頂き、大変勉強になりました。
そこで、今回の記事の中にふと疑問に思ったことがありましたのでお伺いしたいのですが…
人間は人間に輪廻するとなると、進化の過程で霊長類が人間になる前はやはり人の魂も存在しないのですか?
三次元の物質的な世界と同じ様に多次元の魂が存在する世界にも進化というものがあるのでしょうか?
また、動物、植物、単細胞生物、ウイルスなど、地球上には様々な”生物“がいますが、魂というのは全てに宿っているものなのですか?