「神」という存在の定義・捉え方

念仏
宗教を持たなければ不幸か
科学万能の時代とは言いながら、私たちの心の支えとして、神仏の信仰は間違ったものであっても日常生活の中に取り入れられて存在している。
特に、日本の仏教における先祖供養という儀式は朝夕の行事として、広く民衆の生活の中に溶け込んでいるといえるのだが、霊的に観ると決して額面通りにはなっていないだろう。
宗派によって題目はちがっていても、儀式化された勤行の姿は変わっていないようだ。
はたして勤行で先祖たちが本当に救済されるのであろうか?
「先祖供養をしっかり朝夕欠かさずに行っています」と胸を張って豪語していた相談者が子どもの不登校で悩んでいた。
この親御さんは子どもが自分の思い通りにいかないことに腹を立て、子供にきつく当たって感情的になることが度々あるという。
親のエゴで感情に走り、心を不調和にしている人間が、先祖供養と称して形ばかりの勤行をしているだけでなく、自分の子どもの心まで歪ませてしまって右往左往している。
このようなことは決して他人ごとではなく、珍しいことではないというところに問題があるのではないだろうか。
日頃の子育ての姿と、形式的信仰の姿は矛盾も甚(はなは)だしい。
神道は「祝詞」を神前であげ、礼拝をしている。
神社、仏閣、教会にお詣りにいく者こそ、信仰深い者ということになっている。
しかし、多くの信仰深い人々も、決して神仏の真の意図を理解することもなく、古来の習慣と伝統として信仰生活をしているようであるが、真の信仰という観点からすればまだまだ未熟な信仰スタイルといえるのではないだろうか。
それでは
ほんとうに神社に神がいるのだろうか?
ほんとうに仏閣に仏がいるのだろうか?
否である。
神と祭り、拝んでいる社殿に真の神が座すのではない。
仏と祭り、拝んでいる仏閣に真の仏が座すのではない。
教団や教祖、指導者たちの作為的な教導に疑問をもちながらも、神罰、仏罰を恐れ、ご利益や力が無くなるのではないかなどと怯(おび)えた生活をして精神疾患者となり、失職する信者もいるのである。
うつ病だと言って相談にみえた若い女性。
ある霊能者の自宅にある祭壇に向かって般若心経を何巻も唱えるうつ病患を患う若い女性の姿は、異様なほど不気味なイメージが浮かび上がってくる。
しかし、このような状況は10年も続いているが、憑依されて変わる人格は、己自身に問題があることを彼女自身も気づけず、家族も気づけなかったのだ。
私は言った。「いつまでも依存して霊能者宅に出入りすることをやめて、正しい生き方を学びなさい」と。
人々は誰もが幸福な人生を送りたいと願い、信仰はそのためと思っている方々が多いようですが、霊能者の祈祷や除霊に依存し、神社に詣でて神官に祈祷してもらう人たちも多い。
しかし、神社の霊域の清浄は宮司の霊格と志、言動で決まると言っても過言ではなく、仏閣の霊域の清浄は住職の霊格、志、言動によって決まると言っても過言ではないことを知っていただきたい。
神社だから、神を祀っているから清浄だとはいいきれるものではありませんし、非常に低い霊波動の神社や仏閣も多いのです。
むしろ危険で邪悪な霊がたむろしている神社仏閣もあります。
実際に〇〇の神社に赤ちゃんをつれて誕生の報告に行ってから毎晩夜泣きが始まり、ひきつけをおこしそうに泣いて困っているという若いお母さんがいたが、きれいに浄化をしてあげた晩からはこれまでのようにスヤスヤと眠っているという。
このようにさまざまな形で神社や仏閣に関わっていますが、寺院や教会で、お坊さんや牧師の説法を聞き、心の糧として生活している信仰者もある。
なかには神を求め、仏を求め、厳しい修行に耐えて、神々の声を聴いたという者もいる。
はたしてそれはどのような神なのか、仏なのか。
人々が信仰し、思っている神といっても、その実態はまことに不確実、不確かなものが多く、神と呼べるようなものではない存在が多い。
故に、神社で祀る神は大宇宙、森羅万象を創造した唯一の存在であるgodではなく、人間が作った人間の上の上(かみ)といえるだろう。
心の光
 
間違った信仰
特定の宗教に属さず、従来の因習にとらわれず、中には崇高な志を以って衆生済度に立ち上がり、人々の苦悩に耳を傾ける人間もいます。
私たちの周囲をみると、こうした数えきれない信仰のさまざまな姿が雑居しています。
だが、正しい信仰もわからぬままに、その険しい人生経験を積んでいる人たちが意外と多いものだ。
神を信仰する者
仏を信仰する者
教祖を信仰する者、させる者
信仰の場に登場する神とはどのような神なのか。
どのような仏なのか。
その実態は甚だ不可解な信仰も多いということを多くの相談者から知ることができる。
たとえば、信仰者となったがために、心に足枷をはめられ、神仏の裁きや罰を恐れ、霊能者や宗教指導者の奴隷になっている人々、これは計り知れない膨大な数だろうと推測される。
ある霊能者は弘法大使の言葉は絶対であり、それに従わなければならないと言って人を扇動し、支配下におき、自由に人心を操っている話しをかつての信者から聞かされた。
その霊能者の言う言葉には、無知と故意から来る矛盾があふれていた。
このようなケースは信者も盲信的で無知なら、指導者もまた故意であり、無知といえよう。
こうして宗教指導者が故意にそれをやっていたにしても、やがてその苦悩の反作用がその指導者、信者に戻ってくることになる。
そして信者も、宗教指導者も、霊能者も、調和のとれた心豊かな人生は歩めないだろう。
無知ゆえに心の仕組みを知らず、間違ったことを指導し扇動する霊能者や教団指導者は実に多い。
だが、真実の法則を知るならば、無知や、故意による扇動、間違った教導の罪がいかなるものかがわかり、良心が働くならば他の人びとにそれを求めることができなくなるはずである。
したがって、間違った指導者ほど救い難くなり、常人の罪より一層深いものとなるであろう。
神はひとつ
神理真理であり、ひとつであり、それは正しき心と行ないの物差しに沿った生活しかないということを、指導者も信者も知らなくてはならない。
そして、その中から豊かな心と安らぎある生活が生まれ、真実の人間に立ちかえるということだ。
真の神仏
真の神は、人間社会の物質経済の高低によって、その人を差別したり、地位や名誉で人間の価値を定めることはしないのが唯一の神の意識であり、愛であり、慈しみであろう。
人間自身が差別をし、階級を作り、信者間の競争意識をあおり、それをやっているのである。
これは教団信仰のなかにも現実に存在している。
まともなような法を説き、教祖として崇めるように仕向け、金を寄進させ、金銭によって階級を与えている有名な教団は多い。
私たちは、いかにして万物の霊長であるという自覚に目覚め、正しい中道の心を生活の中に活かすか、そうして、万生万物相互の調和を図り、悔いのない人生を送っているかということが大事であり、信心信仰も、ここに帰一されるものでなければならないだろう。
巷には神と称するさまざまな神(?)が存在し、信者を集めている。
だが、神は人間社会に、ストレートに現われるものでは決してない。
しかし、神の言葉だ、神のお告げだ、と、こうした誤った信仰によって、幸福を求めながら不幸に陥っている人が非常に多いことを聞き、見てきた。
信仰は通常、私たちの五官では感じることのできない心の世界だけに、よほど疑問を以って臨む必要がある。

人間社会で語られている「神」といわれるものはいったい何を指していうのだろうか。どのような存在をいっているのであろうか。
このことは、この地上の3次元的視点や価値観で4次元以上、超次元の存在を語り切ることは困難なことですが、ありとあらゆるものに内在する生命エネルギー、大宇宙に無限に遍満する意識エネルギーと表現し、これを「神」と語るしかない。
もう少し表現を変えるならば、「神」とは大宇宙・大自然の摂理と言えるだろう。
しかし、これだけの言葉で「神」といわれてもはたしてどれだけ理解し、納得できるのかとなると甚だ心もとない。
それでは何故、大宇宙の法則と表現するのか。
私たちの生存を可能にしているこの地球然りですが、先ず太陽系に目を向けてみてほしい。
太陽系
太陽を中心にして、最も太陽に近い水星から、金星、地球、地球の惑星として月が存在し、次いで火星、木星、土星、天王星、海王星、太陽系外縁天体、彗星、小惑星群と主だった太陽の惑星だけでもこれだけの星が宇宙存在の超原始から今日まで、一糸乱れぬ法則という秩序によって運行循環し、存在しているのである。
この存在はそのまま摂理であり、統合された意識が背景にあるとしなければ説明できない営みといえるのではないだろうか。
人類はこの摂理、秩序のなかで生かされています。
これを天文科学者や自然科学者、物理科学者たちは科学と表現しているのである。
科学と大宇宙を統べる根本的意識であるところの「神」とは何ら異次元の存在でも分野でもなく、ただ表現の違いでしかなく、科学も神も根底にあるものは摂理という真理でしかない。
生命のすべては、この地上における3次元的物質界のものと、4次元的な霊界のものがあるのですが、どちらの生命もみな、背後には創造的エネルギーが控えてこそ可能なのであります。
創造的なエネルギーとは、私たちの魂の表面意識ではなく、中心に位置する意識のことであり、この意識はそのまま調和された愛となって自他を生かす働きとなるものです。
この愛こそが私たちの魂の中心にいただいた神からの分霊、すなわち分け御霊といえるのであります。
この分け御霊は完全なる愛であり、完全なる叡智です。
こういった愛という創造的エネルギーが全宇宙のすみずみまで行きわたっているのです。
私たち人間が知り得た限りのほんのわずかなことであろうと、まだこの地上物質の世界には明らかにかされていないものであろうと、それは同じように神の意識のよって創造された存在であるということです。
私たちの身の回りにあるあらゆる生命体にもこの創造的エネルギーが充満しています。
動物、植物、鉱物と、あらゆる存在にこの創造的エネルギーが内在しています。
そして、あらゆる法則の中にも秩序として、摂理として創造的エネルギーである神のエネルギーが内在しているのである。
創造的エネルギーは生命であり、愛であり、全てであります。
人間が神を超えることができない者という意味において、私たちは従う立場であることは明白でありますが、その人類がどうして神の存在を表現しきれるであろうか?
日頃の生活においてさえもとても小さな価値観に拘り、執着して生きているような小さな概念しか抱けない人類が、どうして大宇宙に遍満する意識としての存在を表現できるだろうか。
私たち人間が感知しえることには限界があります。
それは肉体を持った存在であるが故です。
しかし、人間と違って、大宇宙を創造し、統(す)べる存在である「神」には限界がない。
勿論、人類一人一人の全てを感知し把握していると言ってもよいだろう。
何故なら、神と人間は別な存在ではなく、人間の魂は、分け御霊として分霊しただけであって、我々人間に肉眼では確認できなくても、私たちの魂は大宇宙の唯一の存在とつながっているのである。
あなたは神と人間がつながっていることを否定するだろうか。
パソコンを有線で接続するか、無線ランで接続するかだけで、どちらもネット回線と接続されて機能していることには変わりがないであろう。
人間の魂は4次元以上の存在ではあるが、3次元的肉体をもって地上生命を旅する学徒である。
肉眼で見えない霊線で神とつながっているからこそ、神は私たち人類を掌握しているのだということがいえるのです。
しかし、人間は肉体の五官に左右されやすく、執着しやすく、翻弄されやすいものでもあります。
いかに神の子とはいっても、地上生活において心を乱し、翻弄された生き方をしたものは、死後は、次元の低い境涯と環境でしかスタートできないのである。
創造的エネルギー、それは木の葉の輝きであり、大地に咲く草花の姿であり、風であり、山であり、川であり、海であり、雨となって大地を潤し循環する水であろう。
水は温度の影響によって気体となり、氷となり、雪となり、また水となり、液体、気体、個体と三態を繰り返し創造的宇宙意識の働きに沿って循環し、他の生命を生かしている。
この地上界の一切、4次元すなわち霊界の一切、大宇宙間のもの一切、そして私たち人類が解明していな世界のすべてを通じて神の法則が絶対的に支配しているといえるだろう。
この法則から離れては何一つ生まれうこともなく、存在することもできないであろう。
神はあらゆるものの中に存在し、全ての存在の根本的な源である。
したがって、神は、愛のなかにも、憎しみをもつ者のなかにも存在するのです。
しかし、これは魂のなかに愛が存在し、憎しみも存在するという意味であって、憎しみそのものに神があり、愛があるということではない。
ご存知のように、地上では間違ったことを為すもの、悪を為す者、正しいことを為す者、人に愛を施す者がおります。
これらすべての人間は、善悪に如何によらず、平等に、神の恩寵(おんちょう・恵み、慈しみ)をいただいている存在であります。
ただ、己の中の神性仏性を信じて心の調和を心掛けて生きるのか、己の表面的意識、肉体五官に左右されてエゴのままに生きるのかで人生の価値が異なったものとなるのである。
人間は大宇宙の摂理の中で同じように活かされていながら、戦争と憎しみを煽動(せんどう)する者がいる一方で、平和と愛を実践するする者とがいます。
これは何故だろうか。
知性、叡智、愛、慈しみに富む者と、未熟な者の違いであろう。
このように心豊かな者がいる一方に未熟なる者がいます。
しかし、この未熟なる者のなかにもその魂の中心には、神性仏性の種をいただいているのである。
もうお気づきでしょう。心豊かなる者は、未熟な者から成長していくものであろう。
未熟な者を愚弄(ぐろう)してはならない。
あなたも成長したのです。
子を責めてはいけません。
あなたが歩いてきた道です。
老いた人を馬鹿にしてはなりません。
あなたが行く道です。
万象万物、生命の旅路は進化向上です。
成長する過程は苦しみが伴い、葛藤のなかで向上するのである。
成長は心を広く大きくします。
心は器です。
器の大きい人間になるべくこの地上に生命をいただいたのである。
人類が善だとか悪だとか言っているのは、その人生航路における途中の段階の高い低いの表現に過ぎず、人生航路の終着点ではない。
そして、私たちがいう善悪は、まことに未熟な私たちの判断によって語られる段階であって、実際には善も悪も高低があるというのが現実ではなかろうか。
神を語るときにいつも湧き出す疑問、それはさまざな事象に対してもたれます。
平成23年(2011年3月11日)の東日本、三陸沖の地震と津波災害などにみる大惨事は、老いたものが生き残り、孫子を失い、若い夫婦を飲み込むなど、人々の心に「神も仏もないのか」とさえ、やり場のない言葉を言わせました。
地震、雷、大雨、竜巻、津波、こうした現象が地上の人間の冷静な理解力を惑わしていることはよく承知するところであります。
だが、こういった人命を失わしめる転変地変も大宇宙を統べる意識の働きのなかで発生しているものの現象だということです。
しかし、良いことだけ欲しがり、都合の悪いことは神を呪うというわけにはいかないであろう。
むしろ、都合の悪いことのなかにこそ魂の成長を促す大きな過程があると言える。
大宇宙の他の天体、生命体は、私たち人類の魂が進化するように、そして動物、植物、鉱物が常に循環しながら進歩をするように、そこに生を営むすべての存在が進化するようにやはり進化しているのである。
特に、この3次元、物質界は高次からほど遠い存在であり、これからもまだまだ進化して行くのである。
人間にとって都合の悪い転変地変は人類に悲しみをもたらしますが、しかし、成長、進化というものは現象だけをみれば悲しみとしかいえないときもあるであろう。
悲しみ、転変地変、生老病死、これらはみな悲しみを伴うものですが、「顕われ方」の違いだけであり、進化のプロセスであるということがいえるのであります。
最近、太平洋で海底噴火が発生し新たに日本の島が形成されつつあるように、地球も生きているからこそ山が噴火し、海底火山が噴火します。
地震や雷などの天変地異はその進化の証でもあるといえるだろう。
私たち人類は、地球号という宇宙船にのって魂の向上のために輪廻しているということだ。
恩恵だけを受け取って、都合の悪い転変地変には牙をむいて呪いの言葉をあびせるというわけにはいかないはずです。
もともと地球は宇宙の小さな物質が集積して塊り、火の玉状態となり、水に覆われ、緑と大地がハッキリと形作られてきたのである。
私の日課である夏も冬も欠かさぬ毎朝のウオーキングでみられるすがすがしい朝日の美しさ、白銀の夕日は沈んでいくのにまだ燃えて輝いています。
人生もこのようにありたいと心から思う。
凍てつく夜空に輝く天の川の美しさ、満天の星空は私のふるさとという感情が湧き出て、天に向かい一礼する。
春夏秋冬、季節を感じ、小鳥のさえずりに安らぎを覚え、大宇宙、大自然に感謝の心をもつことはそのまま神に感謝していることになるのです。
その心を持った人間が転変地変、雷雨や嵐や稲妻は神とは関係ないというのでは理不尽であろう。
森羅万象の一切は、循環、輪廻、進化の法則の働きによって生じているのである。
見方によっては、地上で暮らす人間ほど罪深い存在はないかもしれません。
しかしご理解いただきたいのは、私たち人間の一人一人は、それぞれ魂のステージアップ、進化の程度に応じて自由な意思が与えられているということだ。
この自由とは、無限の可能性ということでもあるが、心に執着(不満、愚痴、怒り、嫉み、恨み)があればこの自由意思は狭義なものにしかならず、その働きは非常に限定的であることも知っておかなければならない。
これが人間の魂の仕組みであり、働きである。
霊的なステージを高く上れば上るほど、自由意思を行使できる範囲が広くなります。
つまり今の私たちは、霊的に言えばそこまでが限界ということでもあり、また無限の可能性を内在している魂だということです。
魂をステージアップしていく段階で発生する逆境、困難、試練、障害は、私たち人類が神の分霊であるが故に、これらを克服できるのである。
物質を優先に考えてはいけません。
魂は(心)霊は物質に優ります。
肉体は魂(心)に従うものです。
魂(心)は全てに優ります。
魂は全てを創造する生命であり、生命は魂(心)です。
物質や現象、創造は魂(心)の反映であります。
故に、大宇宙に遍満する天体の一切は宇宙意識(神)の物的現象といえるであろう。
大宇宙に遍満する物的存在、霊的存在、これらは皆、大宇宙を創造し統一する意識によって存在たらしめている。
私たち人間がどれほど知性を備えても、大宇宙を統べる意識と同通し、それを語ることはできない。
まして、神が語っているなどと言葉にできようはずがない。
しかし、私たちの魂の静寂の中で、心が大宇宙と交わり、それを実感できる境地にまで自分の霊性を磨き、高めることはできる。
自分の魂と森羅万象とが決して別の存在ではなく、自分のなかに森羅万象があり、森羅万象のなかにじぶんがあるというように、一つであることを静寂の中で悟ります。
私たちが自分の中にある霊的な存在を自覚するために何が必要であるか、それは物質的肉体を通して、多くの体験をしなければなりません。
それによって物質次元からから霊的存在意識へと進化するのである。
しかし、進化の過程において、私たちの魂は、肉体という物質をまとうことによって、肉体五官による自我を知ることになるということだ。
解りの事と思いますが、眼、耳、鼻、舌、身の五官は、肉体機能として重要な役割を果たしているのではあるが、この感覚によってそれに囚われ、執着するのもまた人間の心の弱点である。
私たち人間の肉体も魂も、大宇宙意識という神の一部であることは変わりないのだが、魂そのものの中心部は神の分霊として完全であるにも関わらず、肉体をもった時点で囚われ、執着することによって不完全な生き方をしなければならないのだ。
だが、私たちの魂が進化するにつれて、より調和された言葉を発するようになり、より人々と調和するようになり、行動が完全なものとなって表れるようになるのである。
古来より変わらないもの、それが大宇宙の摂理、秩序であります。
人類が未熟で不完全であればあるほど地上の平和が脅かされ、地獄の様相を顕現することになるだけです。
しかし、私たちが崇高なステージに向けて魂を進化向上させるにつれて、大宇宙の摂理でる神の意識がより多く私たちを通して働くようになるのである。
私たちの心は丸く大きく光り輝く殊玉であり、周りの状況や相手をよく映し出す鏡でもあります。
鏡が雲という執着に覆われていれば、光の全てを反射することが出来ませんし、周りの状況も自分自身の立場も冷静に、知的に判断する、客観視することなどできないでしょう。
己自身の心の鏡を雲らせないように日頃からよく調えるべく、一日の終わりに自らを省みる習慣をもちたいものである。
私たちの魂が神の意識と同通して本来の輝きを顕わすためには、殊玉を覆っている汚れを落とし、研磨し、手間暇をかけていかなくてはならないでしょう。
人間は事の善悪を学び、それを知っていながらも悪を為し、善をつぶそうともします。
正道から外れた生き方は、自らがそれに気づき、調和を求めなければ同じことを繰り返し、向上することもありません。
執着する者が苦しみ、悩み、人生の奈落を味わっていても、自身がその窮地から脱したいという強い願いがなければ、いかに手を差し伸べてもその手を握ろうとはしないものだ。
愛を以って手を差し伸べる行為の原点はどこから発するのかとなると、それは一つしかない。
自身の魂の中心からであり、魂の中心はそのまま大宇宙の意識、すなわち神のステージであろう。
だがそれにも段階がある。
人間にどれほどのことが創造できようか。
物的建設ではない。科学的建設でもない。
愛の建設、慈しみの人類調和。
の愛は、絶体絶命の境涯で発露されるという側面をもっている。
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