困難・克服・不変絶対の法則

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困難、苦しみは自分自身の心が成長するための通過点と受け止めて生きなければならないことは前回のコラムで申し上げましたが、今回も前回に関連する事を述べてみます。
そのような意味合いから、生きることのなかで解決すべき問題もなく、チャレンジする目標もなく、超えるべき困難もない生活には、人間の魂の深奥に秘められた神性仏性が開かれる機会はないでしょう。
前回も述べたように、本来、悲しみも苦しみも、心の奥にある神性開発のためには最大のチャンスでもあるのです。
ここで全く視点を変えて、私のこれまでの人生を振り返ってみますと、数えきれないほど失敗と苦難があったことが思い出されます。
そして、不思議な事に、困難の渦中にいるときは気づかなかったのですが、困難を克服してようやく一息ついたときに心に浮かぶのは、困難と克服は連綿とつながった事実であり、しかもそれが必然であったということです。
困難も、克服も、一つとして偶然というものが無いのです。
すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。
不変絶対の法則、これはどういうものであろうかとなると、全ては作用すれば反作用が働き、この働きがいつも循環しているという輪廻の働きのことである。
登山をすると困難な場面が必ずおとずれてきますが、目標地点である頂上をめざして歩をすすめ、時には周りの景色を眺め、休憩しながらも再び歩をすすめます。
登山口、コースは一通りではなく、いくつもある。
しかし、辿りつけば皆が同じ頂上で雄大な景色に感嘆し、心からの喜びを味わうことができる。
人生のコースも人それぞれであり、多くの困難も喜びも味わうであろう。
この味わいのなかで人間は霊的な意識が芽生え、自身の真我に目覚めた時、何もかも理解できるようになっていくのである。
人々はいったい何故に不要な事に心奪われ、何を恐れ、また何故に自己の内にある善なる力を信じようとしないのか。
宇宙に目を向けてみてほしい、太陽を中心にいくつもの惑星が自転公転しています。
地球という星は宇宙全体からみればでれだけ小さなものでしかないのか、その小さな星の表面に暮らす人間の存在はどれほどの存在であろうか。
その人間が争いをして我が利益のために殺戮を凝り返しているのである。
人間は宇宙の一部なのに、その宇宙を支配する絶対的存在になぜ心を向けないのか。
あらゆる無用な不安、恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って不変絶対の法則に沿って生きるべきです。
宇宙大自然に心を合わせ、その宇宙と同調する心を我が心とするのです。
そして自然な心とは流れです。
流れとは不必要な拘り、囚われがなく、執着がなく、心が流れていることです。
何かに拘り、執着しているときは自然の流れがなく、滞っている。
人間は自然に沿わない時に苦悩するのである。
流れが無い時に苦悩するのである。
心の奥を平静に、そして穏やかに保ち、しかも信念をもって生きるのです。
そうすればごく自然に不変絶対の法則の心があなたを通して発揮されます。
そして、愛の心と冷静で客観的な視点もって臨めば、何事もきっと成就します。
人の言葉も、そして、宇宙大自然の意識を聞く耳をもつ者のみが天の意思を知ることができるのです。
そのためには愛と慈しみがすべての原点です。
心の霊的真理を知った者は恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも必ずや天の協力があることを一片の疑いもなく信じることができなければならない。
苦難にも悲しみにも挫(くじ)けずに、果敢に立ち向かっていかなければなりません。
なぜそうするのか、心の力はいかなる物的な力にも勝るからです。
また、この真理を知った者は、物や金や地位、名誉、職業などによって自分を見失うことがないだろう。
しかし、恐怖心こそ人類最大の敵である。
恐怖心は人の心を蝕(むしば)み、恐怖心は理性を欠き、枯渇(こかつ)させ、マヒさせます。
あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこすのである。
心が肉体に優るものである真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自信に溢れ、決して取り乱すことがあってはならないだろう。
“はがね”は火によってこそ鍛えられます。
それと同じで、魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて覚醒するのは、苦難の中においてこそです。
苦難の時こそが私たちが真に生きている貴重な証であります。
夜明け前にはまだ暗闇があるように、心(魂)が輝くには暗闇の体験がなくてはならない。
そんな厳しい逆境の時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善を尽くし、自分の内にある力に全幅の信頼を置くことです。
そして、霊的知識を手にした者は挫折も失敗も天の配材の一部であることを悟らなくてはいけません。
陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、不二一体のもの、いわば硬貨の表と裏のようなもの、一枚の紙のようなものといえば理解しやすいだろうか。
裏表一体なのですから、自分に都合の良いほうだけ望み、不都合な方は拒否することは叶わない。
人間の霊的進化ということを考えると、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があることに気づかされるであろう。
また、守護・指導霊という存在は、私たちにの心が偏りのない信念と、平静な心の霊域の中において初めて地上人間と接触できるものであることを知っておかなくてはならない。
そして、恐れ、疑惑、心配、不安等、こうした心の動きは正しき霊界の住者が地上人間とコンタクトをとる場合の唯一の手段を閉ざすことをも知っておかなければならない。
私たちは経済的にも恵まれ仕事も順調であれば感謝ということができやすいのだが、自分にとって厳しく、辛い環境にあるときは感謝の念を持てない傾向にるものです。
しかし、ほんとうの意味で全てに感謝すべき時は、辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ自分に内在する力を発揮すべき絶好のチャンスなのである。
人間はいざというときになると正しい判断を見誤るものだが、これは動揺や不安、恐怖心が冷静を欠き、本当に必要なことを見逃すからである。
心の問題を取り上げるときに、どうしても切り離せない事であるからあえて申し上げますが、4次元の霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。
霊的な真理は、実生活の場で真剣に実践し、体験してこそ、初めてそれを理解できるのであり、魂の準備が出来あがることになります。
この点をよく理解しておかなくてはなりません。
私は毎年春には花の種を蒔き、たくさんの花が咲くのを楽しみにしているのですが、種を蒔きさえすれば芽が出るというものではありません。
芽を出させるだけの条件が必要です。
養分がそろっていても太陽と水がなくてはなりませんし、そうした条件が全部うまくそろった時にようやく種が芽を出し、成長し、そして見事な花を咲かせます。
こういった条件を人間に当てはめてみますと、その条件とは苦悩であり、困難であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験であります。
何もかもが順風漫歩で、鼻歌まじりののんきな暮らしの連続では、心に潜在する崇高な神性の開発も拡大もできようはずがありません。
苦労の末に霊的智慧に目が覚めると、その時から人間はこの宇宙を支配する天の意識と連なり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを己の中に携えるようになり、発揮しはじめることになるでしょう。
それを機に4次元世界との強力なつながりが生じ、必要に応じて4次元世界から力なり影響なり、インスピレーションなり、真理なり、美なりを引き出せるようになるのである。
これは私たちの魂が進化しただけ、その調和度に応じて能力と自由意志が与えられます。
すなわち、霊的進化の階段を一段上がるごとに、その分だけ多くの能力と自由意志を行使することを許されるのである。
しかし、霊的目覚めには魔が競いたち、その魔に翻弄される場合があることも同時に気を付けなければならないことであります。
意識エネルギーは物質に勝ります。
意識エネルギーこそ全てを造り出す根源である。
なぜなら、意識エネルギーは生命そのものであり、生命の実態は意識エネルギーそのものだからです。
苦と楽は手のひらと、手の甲のようなもので、裏表が別物ではありません。
裏表が同時存在して用を成されるという不変絶対の法則は、苦労、困難、悲しみのあとに訪れる喜びのように、あらゆる場面に作用して働いているのである。

※お知らせ。

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つきましては、26年1月からは週に一度のサイクルでアップする予定でおります。いつも楽しみにしてこのブログを訪問してくださっている方々には申し訳なくも、本当に心から感謝を申し上げます。
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