霊は本質的・根本的エネルギー

心の光
覚醒の段階
人間は3次元における物的肉体が、4次元における霊的なエネルギー体によって機能している存在であることを否定する人はどれだけいるのだろうか。
このことは私自身が体験した多くの事例から確信をもって言えることですが、また多くの人たちと霊的な問題でやり取りしたことから、霊(魂)が肉体をもって地上で生きていることを言わんとするものであります。
しかし、このことに関して、特に科学者や医学に携わる人、有識者といわれる人の場合は肯定的ではなく、むしろ否定的な人のほうが多いのではないだろうか。
何故なら、霊的なことは知識では分かることがなく、心で感じ観ることだからであろう。
こうしてみると人間の価値観というものは非常に限定的であり、経験したもののなかだけで判断される傾向にあるようです。
ちょっと視点を変えてもましょう。
身近な問題として実例をあげるならば、食べ物ひとつについてもそれがわかります。
例えば、洋食で育った子供はやはり洋食系が好きで、ハンバーグが好き、ビーフシチューが好きと答えるが、和食で育った子供は切り干し大根が好き、肉じゃがが好きだと答えるのです。
ある幼稚園では給食を和食を率先推奨して実施したところ、もずくが好きだ、おひたしが好きだ、昆布の煮つけが美味しい、というようになってきた結果、風邪を引く園児たちが少なくなってきたという。
最近、和食が文化遺産として登録されたことが話題となっていましたが、上述したように和食の恩恵は思わぬところでその良さを示すことになったようだ。
ちなみに、私は毎日野菜スープを食前にいただいていますが、お蔭様でお通じが良いのと、この年でお肌がすべすべしていて顔にもシワがない。
(このレシピは後日紹介しますから参考にしてください。)
無形文化遺産登録の申請にあたり、農林水産省がパンフレットを作成していますが、ここで挙げている和食文化の特徴は4つあります。
(1)多様で新鮮な食材と素材の味わいを活用
(2)バランスがよく、健康的な食生活
(3)自然の美しさの表現
(4)年中行事との関わり。
なるほど、和食の特徴は、海の幸、山の幸と呼ばれる多様な食材があって、しかも脂肪分が少ない。
季節の花をさりげなく添えるおもてなしの心や、お正月やお花見などの年中行事と密接な関係を持って育まれた文化がすなわち「和食」というわけですね。
ちなみに、食文化の世界遺産としては、これまで「フランス美食術」、「メキシコの伝統料理」、トルコの伝統料理「ケシケク」、スペインやイタリアなどの地中海料理が登録されているようです。
さて、話題を戻しましょう。
私たちは、この地上に生まれてその環境や親の影響を受けて育ち、学んだことの影響を受け、知識、習慣、文化、伝統、対人関係などの影響をうけながら価値観ができあがっていきます。
4次元の霊こそが生命そのものであり、肉体が朽ち果てても霊は次元の異なった世界で生き続けているのである。
したがって、生命は霊そのものだということがいえる。
もっと厳密にいうならば、霊の無いところには生命はなく、物質は霊が宿るための器に過ぎず、殻に過ぎないということがいえるだろう。
これは何も肉体を虐げているのでもなく、疎かにしているのでもなく、霊と肉体の主従関係を理解頂くために述べているのです。
私たちの身の周りにある全ての物質は霊という実在、即ち、4次元のエネルギー体よって投影されたカゲ(現象、形、物質)にすぎません。
物質それ自体には生命はないのですが、霊的エネルギーが備わることで生命体と成り得て用をなすのである。
エネルギーとは、運動を成しえる能力のことをいうが、この能力は質量に比例すると物理科学ではいっている。
この質量を簡単に説明すると、燃やして暖をとる薪がありますが、薪にも木の種類によって熱効率の高いものと低いものがあります。
例えば、楢の木は非常に密度が高く、その分だけ同じ大きさでも重さが違います。
赤松の木と同じ大きさなら倍近くの重さの違いがありますが、これは密度、質量の違いなのです。
我が家の暖房は薪を燃やして暖を取るため、楢の木と赤松では、木そのものの質量が違うことでエネルギーの能力が違うことがわかるのである。
私たちの魂(心)は個性をもったエネルギー体であるといえるでしょう。
そしてその魂の質量はとなると、基本的には皆、だれもが平等に備わっているものではありますが、実際には本人の覚醒の段階によって発揮する能力に差が生じているということだ。
行住坐臥(ぎょうじゅうざが)という言葉がある。
私たちが存在し、呼吸し、動き、考え、座り、休み、眠り、判断し、反省し、要約し、決断し、正しく熟考することができるのは、人間が霊であるからこそです。
霊が私たちの身体を動かしています。
霊が離れたらその身体は腐り、土に還るだけです。
宗教に頼り、依存し、ご利益を求める人たちが犯す過ちは、物質を崇拝し、間違った偶像を拝していることになります。
何故間違いなのか。
そこに実在(霊)が無いからです。
物質は一時的な存在(現象)に過ぎないことは先に述べました。
霊はすべての存在を形成する基本的エネルギーであり、素材であるが故に永続性があります。
人間によって表現されている生命力は、霊的生命エネルギーという意味合いにおいては、固有の分類はあっても、小鳥、動物、魚類、樹木、草花、果実、野菜等に表現されているものと同じ生命力であります。
但し、人間は人間としての生命体であり、小鳥は小鳥としての生命を輪廻しているということであって、人間の魂が草花に輪廻するということではありません。
いかなる形体にせよ、生命のあるところには必ず霊が働いています。
霊性、霊格という言葉に示されるように、自身の自覚の程度、意識の程度にはさまざまな段階があります。
霊の表れ方、すなわち表現するかたちは限られたものではなく、無限であります。
無限なるものに制限を加えることはできません。
そして、私たちの生命の力の背後には、全ての霊の極致であり源泉であり、頂点であるところの、唯一絶対の存在があることを忘れてはならないでしょう。
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