偽我と善我

大宇宙、大自然の支配者である唯一なる意識は、公平にして無私、人もまた、平等にして差別のない心の所有者である。

それなのに、人の世は能力の別、好みの別、体力の別、知識の別、節度の別、生まれた環境の別があり、喜怒哀楽にも、相違が出ているのはなぜだろうか。

働く者とその義務を怠る者、行動する者と傍観する者、学ぶ者と享楽に耽る者、今日に生きる者と明日を楽しむ者、健康な者と病弱な者、自分にきびしい者と人を責める者、愛情深い者と溥い者、和合を旨とする者と争いの種を蒔く者、自分の思い通りにやろうとするあまり幼い子供に言葉の暴力を言い体罰、暴力までする親のエゴ極まりない言動、感情の起伏が激しくいつも他を裁いている人、謙虚な者と自分を高く見せようとする者、責任を果たす者と依頼心の強い者、足ることを知る者と欲深き者……。

こうした相違が、平等であるべき人間に不調和と不平等を造り出している。

しかし、大自然界は、決して人間を不平等には扱ってはいない。

自らの心に思うことや行なうことにおいての調和度がその人をつくり、正しい者達の心には、光明が射し、安らぎに包まれるのである。

ちょうど、青天の太陽の光が、万物万生の成育のエネルギーへと変わるように、人間の心のエネルギーもさまざまのものを育てる。

暗い心は、あたかもモヤシのように暗いむしろのなかで、光をさえぎって育つものを育てるのだ。それでも大宇宙を統(す)べる意識は、平等に、慈愛の光をそそいでいる。

それを、受けるか受けないかは、その人の心と行ないによるだろう。

愛とは、寛容である。

包容力である。

許すことである。

もし、この地上に愛がなければ、人の世は、水のない砂漠を行く旅人のように、飢渇に泣き、他をかえりみるいとますらないであろう。

愛は助け合い、補い合い、かばい合い、許し合う、そのなかに生きている。

愛は、神の光なのである。

地上の灯なのである。

暗闇にさまよう人々の心にうるおいをもたらし、生き甲斐を与えてゆくものである。

愛とはまさに、灯台の灯ともいえよう。

しかし、愛に溺れてはならない。

愛は、自分に打ち克つ者、向上を目ざす者に与えられる。

暗闇の世界は、自らの進路さえ迷わせる。

前途に何が立ちはだかっているか解らないし、いつ足を踏みはずすかも知れない。

焦燥感に襲われることだってあるだろう。

この暗闇の世界を支配している、ならず者の群れ、脅迫、強盗、迫害、暴行、詐欺、裏切り、偽善、……などは、そのまま恐怖の世界であり、すべて満足することのない、欲望の尽きることのない苦しみの世界である。

それは、光明を失った人々の、悪想念が造り出したものである。

闘争と破壊、暴力、武力がまかりとおる世界といえよう。

慈悲深く、愛をほどこせる者は、自ら安らぎの心をつくり、人々の心に光明を与え、悪魔を支配する正しい道、神仏の道を行く者だ。

悪魔に勝る道は、慈愛の心と行ない以外にないであろう。

悪魔は、已の心のなかにもひそんでいる。

正道(右にも左にも片寄らない調和された生き方)を悟って勇気と努力の実践に、偉大なる智慧が加わり、自らの欠点を修正したとき、心の悪魔は亡びるであろう。

已に打ち克つことのできる者こそ、真の勇者といえるのである。

人の魂は、転生輪廻という大宇宙を統べる意識のはからいから、一歩も外に出ることは不可能なのだ。

なぜなら、人は神の子であり、神仏自身であるからだ。

神仏は、無限の進化をめざし、無限の大調和を目的としている。

人の転生は、その目的のもとに、永遠に続くだろう。

大自然の輪廻とまったく同じで、人間だけが別ではないということである。

人がもし、この法に反し、欲を求め、自我に身を置けば、その人は、その分量だけ、償いの労を課せられるだろう。

これが作用と反作用の法則である。


物質もまた、輪廻をくり返している。

集中と分散という過程をとおして、そのエネルギーは永遠の活動を続けるだろう。それも、すべて外部からの縁の働きによるものだ。

原因と結果という、″法則″を曲げることはできないだろう。

その活動の目的は、生命の転生輪廻を助け、あるいは媒体としての役割を果たしている。

生命も物質も、このように、転生輪廻という大宇宙の″法″の下に、その意識の目的を果たすために生かされ、存在しているということである。

人は、目覚めているときは、肉体を自分だと思っているだろう。

眠っているときは、肉体が自分自身だとは思ってはいない。

他からの力を受けない限りそのときは無自覚だといえるだろう。

肉体から船長(魂)が、降りているからである。

親も、兄弟も、妻も、子供も、友人も、職場も、何もわからない。

五官の機能が、何も受けないからだ。しかし、鼻の穴も、耳の穴も、ちゃんと開いている。ただ、意思を働かすことができないのである。

目が覚めて、肉体の自分を自覚し、妻や子供のあることを知る。

ということは、自分にとっては、この世の一切の″モノ″は自分という意識があって、存在するということだ。

自分という意識がなければ、この大宇宙も地上世界も、自分の肉体も認知することはできないだろう。

自分の意識というものは、そのように偉大であり、意識は宇宙大の広がりを持っているといえよう。

この意識こそ、唯一なる存在の心に通じた、本当の己の心ということだ。

不変の魂ともいえよう。

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