正しい念

祈り

現代宗教の多くは、ただ祈ることのみが念ずることだと思っている傾向があり、またそれが供養になると思い、功徳になると指導している所が多い。

本来、経文というものは、拝むための道具ではなく、経文の中に書いてある意味に、私達の眼は向けられなければならない。

特に現代の仏教は、むずかしい哲学化した経文を上げることが、一つの勤行と化してしまっている。

これは大きな間違いである。

その中の意味にこそ意義のあることに、なぜ気づけないのであろうか。

ありがたいお経だと思ったなら、その経文の文言の意味を生活の中で実践するところに、真の意義のあることを悟らなくてはならない。

一時間、二時間と読経するようになってからノイローゼが改善されたとはいっても、普段の生活で我を通すような生き方をすれば再びノイローゼやうつ病などを病む傾向があり、根本的な心の不調和が改善されたことにはならない。

精神的疾患を病んでいた人が読経することで症状が楽になったというのは、日頃の鬱々とした気持ちを、別な事へ意識を向けた事による効果であって、読経によって自分のこれまでの心の癖(傾向性)が正されて調和されたとはならない。

人間の持っている個性、癖、傾向性、自我、執着、気の強さ、傲慢、自己中心、驕り、こういった心を修正するのは相当の決心と勇気と努力と継続がいるものである。

経文の本来の目的と意味は、こういうときにはこのように心を調えなさい、こういうように生きなさいという苦悩を乗り越えるためと、心に調和と安息を得るための心の在り方を示したものである。

亡くなった人々に、お経を上げることによって功徳があると信じていることは全くの大きな間違いなのである。

なぜなら、この世を去った人々の霊が、日頃学んでいなかったその経文の意味すら分からないのに、なぜ功徳があるか、ということを考えてみればすぐにわかることです。

お経は、ただの観念論ではすまないことを知らなくてはならない。

知識や観念論ではなく、実践以外に心の調和を得て悟ることはできないものだということだ。

簡単なことである。あなたは自分の分からない言葉で相手から語られて、その理解が行きとどくであろうか。

人間は、この世での生活状態、心で思っている状態を持ち続けながら、やがて寿命がくればこの世を去って行くものであって、死んでしまったら即座に仏になるのだというならば、そのことを説く人々が実際に分かってそのような説明をしているのだろうかと、疑問を持たずにはいられないのである。

物理学でいう慣性の法則(リンククリック)を考えてみてほしい。地上に慣性の法則があるように、私たちの心にも慣性の法則が働き、あの世にも慣性の法則があるのだ。

ここでいうそれは、この世での現在の不調和な意識を持ったまま、次元の異なったあの世の世界に循環して行く死者は、悟るには大変な気の遠くなるような時間がかかるということである。

読者の中にはそんなことが分かるはずはないと反論する人々があるかも知れない。

しかし、これまで霊の影響による諸問題を改善、解決し、問題を抱えた人には、希望する場合は指導し、自力で解決することを推奨して結果を得ているのである。

死の際に心に未練や執着があると、その人の念は不調和なままあの世に移動することになり、死んで「仏」になるなどということには程遠く、まして悟ったとはいえない。

この場合の「仏」というのは悟った人という意味で使う言葉であるが、悟ったということは、一切の執着から離れて、不調和な煩悩がない、愛と慈しみの心だけとなった人のことである。

人間として正しい生活をした己自身を知っている霊以外は、低い霊界か、もしくは地獄にいることを、これまでの霊的トラブルの事例によってはっきりと証明することができる。

事例「死後の世界」投稿日: 2012年2月17日

それだけに私達は、正しい心の在り方を悟り、神仏に祈ることもただ自己保存の祈りではなく、感謝の念を持ちその心で実践する中に、より以上の力を神仏から得られるのである。

人間は心の中で念ずることが即現象化されるのであり、たとえば自分が欲望を果たそうとして働く念の心はすでに欲望のとりことなる、という想念になり、自分の意識に記録されてしまう、ということだ。

その記録を消して修正することはできない。 それが魂の仕組みだからだ。

私達が歩んできた過去を消すことができないように、私達の想いという念は、すべて記録し保存されることを忘れてはならない。

しかし不調和な念も、 反省することによって、私達の心は進化するのであるから、反省のない人々は哀れである。反省は、神仏が人類に対するために与えた慈悲なのである。

また、神社仏閣に参詣することはその人の自由であるが、神仏はその人に対する幸、幸の責任は持たないということを知らなくてはならない。正しい心の念と行為が、幸、不幸を造り出すのである。

正しい念によりその行為が神理に適っているならば、私達に協力してくださる指導霊や守護霊達は必ず神の光を与えてくれる。またこの地球そのものも神体の一部であり、大神殿であるから、正しい念は必ず通ずる。神社仏閣は、将来人々の心の修行所、神理を学ぶ場所と変わり、また多くの人々の娯楽の場と変わって行くであろう。

現代の神社仏閣の中には、一部に霊域の高い場所もあって、高次元の諸天善神が常に連絡所として存在し、私たちの一念が現象化される場合もあるが、そのような神域ははなはだ少ない。

例え、一念が現象化されるとはいっても、それは心が調和された人間が他の為に祈った場合に聞き届けられるということであって、自分の都合と欲望を満たすための祈りであってはならない。

従って神社仏閣はどこでも霊域が高い所だ、と信ずることは危険であり、かえって不幸を呼びこむこともあり得ることを悟らなくてはいけない。

先の「死後の世界」の事例のように、不調和なままに神社へ出向き、心を集中したことで憑依されることがあることも知っておかなくてはならないだろう。

また、赤ちゃんを神社につれて参拝にいった夜から夜泣きが酷く、大変な事態になったお母さんがいたが、浄化することで安らかな赤ちゃんに戻り、事なきを得た事例もある。

正しい念を持っている人々は、必ず調和された宇宙の光によって保護され、他のよからぬ不調和な霊に支配されることはない。

多くの人々が今まで神社や仏閣で、神とか仏とかいっているのは、実際はあの世の高次元の天使達のことなのであり、宇宙創造の唯一の神とは別である。

真の神は、人間の造った伽藍におさまるような内容のものでもなければ、小さなものでもない。

然し、天使も心の調和度によって段階があるということも悟らなくてはならない。

また、天使達のほかに不調和な世界があるということも知らなくてはならない。

私達の想像は無限大である。

しかしその想像も正しい調和のための想像でないと、正念とはいえない。

間違った念によって己を失う場合があることを知るべきである。

その証拠には、不自然な新興宗教や不調和な仕事に専念している人々に、果たして心の安らぎがあるであろうか。

自己の心の中に小さな枠をはめて常に格闘を続けているため、不幸になっている人は少なくないのである。人間は生き神さまになどなれるものではない。

神仏の心と調和することは、自分自身の正しい念と、神は己の心にあり、と知らねばならない。
行為以外にはないのである。

※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。下のバナーをポチッとクリックして頂いているおかげで多くの方にに読んでいただく機会も増えております。

そして全国からご相談のメールもいただき、及ばずながらも対応させていただけること、身に余る光栄と存じます。ありがとうございます。

またの訪問をお待ちしております。これからも読んでいただけるような内容のコラムを載せるよう努力いたします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ にほんブログ村 哲学・思想ブログへ