憑依された神官
神社ではない神社
私が30代中頃、30年まえのことですが、いっとき神社や仏閣に関心を持つようになり、仏像にも強く惹かれ、仏像彫刻の教科書を買って全くの独学で仏頭や手だけの彫り方から始め、やがて全身の仏像まで彫るようになったことがあります。
私の場合、スピリチュアルな世界に関わるきっかけがこういうところから入っていったのでしょう。
大きいのは一本彫りで直径1メートル高さ2メートルを超える丸太を使い、不動明王や観音像を彫ってお寺や市に寄進し、事故の多い交差点に安置され、交通安全不動尊として祀られたことがありました。
仏像彫刻をしていた時は、とても精神統一ができていて心の充足感があり、言葉では表現しきれない安らかな気持ちになっていたことを覚えています。
用材を前にじっと見つめて心を沈めますと、用材のなかに彫りあげたい御姿が見えてきます。
形を作ろうとするのではなく、その現れた御姿以外の余分なところを削り取っていくことで美しい仏の御姿が完成するという不思議が魅力でした。
無駄な所を削り取ると美しい姿が現れるというこの原理は、私の煩悩だらけの心にもあてはまる道理なのだろうと気づかされた瞬間でした。
そういうことに夢中になりながら、方やどこに出かけてもその地域の神社や仏閣をみれば立ち寄ってその雰囲気を楽しんでいた時期がありました。
自分の中で神社仏閣に対する意識があったこともあり、不思議とどこにいっても小さな祠からお宮、道端にある庚申塚やお地蔵さん、お不動さん、観音様等々、神仏という存在はどのようなものかという探究心で魅かれるように見入ったり立ち寄ったりしていました。
ある日の事、仕事で遠出をして沿岸の町まで車で2時間近く走りました。
たどりついた小さな町の入口の手前に小高い山があり、その山の入り口に鳥居が見えます。
やはり気になってその山に登ってみることにしました。
鳥居の奥には登っていく階段がみえます。
おそらく200段ぐらいはあろうかと思いました。
一歩一歩階段をゆっくり上っていくと眼下には豊かな緑と小さな街並みが見えます。
初夏の風が頬をなでていく心地よさに、胸いっぱいに空気を吸い込む動作をしながら頂上までたどり着きました。
大きくはありませんが、お宮がありました。
愛宕神社とありましたが御祭神に関することは表示されていなくてわかりません。
愛宕神社といえば、火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、京都市の愛宕神社が有名かと思います。
地方に点在する愛宕神社という名称の神社ではあってもその御祭神には違いもあるようで、日本の神話に出てくる下記のような神々の名前などが見受けられますのも不思議です。
伊弉冉尊 いざなみのみこと)
埴山姫神(はにやまひめのみこと)
天熊人命 (あめのくまひとのみこと)
稚産霊神(わくむすびのかみ)
豊受姫命(とようけびめのみこと)
さて話しを元にもどしましょう。
その神社の境内は小高い山の上にありましたから見晴らしがよく、空気の通りもよいのです。
しかし、境内の鳥居をくぐるまえに一礼して「失礼いたします。境内を散策させてください。」と挨拶してから鳥居をくぐって拝殿のほうに近づいたのですが、何故かその前に足が止まってしまいました。
止まってしまったというより、足がすくんで歩けないのです。
あれっと、思いながら周りを見渡すのですが眺めのいいはずの景色が歪んで見えるので私の眼がおかしいのか目眩がしているのかと思いましたが違います。
拝殿に近づこうとする意志とは反対に、前に進んではいけないという意識が働いて動きがとれません。
おかしい。と思いながら何かしら気配を感じて身が硬くなるのです。
これは前に進んではいけないなと判断して引き返すべく向きを変えました。
すると今度は背中の方(拝殿)にただならぬ人のいる気配を感じて顔を振り返ってみるのですが誰もいません。
ゆっくり、ゆっくり歩を進めて引き返しますが、とても後ろの気配に圧倒されて身の毛がよだつ感覚です。
階段でも後を振り返りながら何とか降り切りましたが、その町の古いお店の主人に聞いてわかったことは、「あそでは大昔に処刑があって首塚になっていたところで、後には供養のために神社の形態をとって祭ってあるのだ」ということでした。
この体験で知ったことは、神社という形態ではあっても必ずしも清浄な神々しい霊域に満ちている神社ばかりではないということがわかったということでした。
江戸時代後期に斬首したあとの首塚だったと聞かされて鳥肌がたったのを記憶しています。
神社というと神を祀っている所と思うのが一般的だろうし、私自身もそう思っていましたが、無知とはいえ無闇に境内に入ることの危険性を思い知らされた一件でした。
稲荷神社の邪気
私の友人に食堂を営んでいる男性がいます。
彼は大晦日の夜になると毎年の行事として年越しそばを振る舞うために某神社に出向きます。
夜の10時頃から元旦の朝まで夜通しの仕事で、それを三が日は続けますから相当疲れるということでした。
私は彼の徹夜の仕事に一声かけたいと思って車で一時間の距離を出向きました。
近づくにつれて「何となく、もしかして」と思い始めたのですが着いたところがやはり覚えのある神社でした。
私が神社巡りしていたときに立ち寄った20年前の神社でした。
赤い鳥居が拝殿に向かって参道にいくつも立ち並んでいる稲荷神社だったのです。
20年前に訪れたその時、私はその参道の脇にたくさんいる卷族キツネたちのただならぬ形相にはとても前に進む気になれず、暫く思案した末に引き返したのでした。
『この神社の境内には入ってはならぬ』と威厳のある声(後に私の守護霊と知る)が胸の中でするのです。
初めての経験に私自身も驚いてその時はまったく理解ができなかったのでした。
3年ほど前にわかったことですが、この神社の宮司さんが神社敷地内にある自宅の二階から飛び降りて亡くなられたということを聞き及びました。
首の骨が折れていて即死状態だったということです。
二階の部屋の窓際には履物が揃えてあったいうことですが、亡くなる数年前から随分と悩んでいる様子で元気がなく、近所の人たちの話しでは精神科の薬を飲み、心が病んでいるようだったということです。
会社もトップの人間(社長)の人間性がどうであるかによってその会社のカラーができ、社員だけではなく社会にまで影響を与えてくるものです。
そういった道理からすれば、神社の宮司の心が調和されていればその神社の霊域も非常に清浄なものとなり、参拝する人たちの心身を癒す場にもなるのです。
お稲荷さんのご利益と災い
通称お稲荷さんは、家の神棚に祀るお札や陶器でできた白狐などがありますが、小さな祠のお稲荷さんから、自宅や会社などの神棚に祀られているお稲荷さん、個人の宅地や会社の敷地に立派なお宮をつくって祀るお稲荷さんもあります。
そして神道系では日本稲荷神社の総本社といわれている京都伏見稲荷神社や、仏教系では愛知県豊川市にある曹洞宗の寺院に祀られる豊川稲荷のような大きな社まで、その規模はいろいろあります。
ですが、お稲荷さんとの関わりは結構気をつけてかからないと危険なところもあります。
比較的お願いを聞き届けてくださるという意味ではご利益を求める人たちにとっては好都合なのですが、自宅で祀るにも神社への参拝にも注意しなければならないことがあります。
お稲荷さんは、人間が願い事するときや、一心になって信仰する人々のその心から発する念波動をエネルギーにしているのです。
ですからお稲荷さんを信仰して祈る人が多ければ多いほど、神社に出向く人が多ければ多いほどその念波動をたくさん頂ける事になり力がつくということになるわけです。
当然、力がついてくれば願い事が叶う確率も高くなるということになります。
人間は苦しい時や、商売を始めた時は志をもって謙虚に純粋に努力もし、神祭りもしていますが、豊かになると原点を忘れ、驕り、傲慢になり、初心の神祭りをしたときの気持ちすら忘れて疎かにしてしまいます。
真面目に努力をし、神祭りもちゃんとおこなっているうちは何も問題もなく良いのですが、慣れ合いになって祭りごとをしなくなるとお稲荷さんの力はドンドン弱くなってくるのです。
いわゆるパワーダウンです。
こうなると、お稲荷さんといわているが実際は(霊格の低い卷族・使い獣・狐)不機嫌になり、怒りだしてきます。
(※高次な神格をもった自然霊としての稲荷大明神は怒らない)
「お前たちが商売繁盛と願い事をするから叶えてやったのに、少し豊かになるともう俺たちを無視してしまうとは何事か。許さん。」となるわけです。
これまでは稲荷神社に足しげく通って参拝していたのに、今はもう全く行かなくなったという人の家庭に様々な災いや病気が次々と起こってくる場合があります。
稲荷信仰は全てがそうだとは言いませんが、往々にしてそういう傾向にあることは否定できませんし、そういったトラブルを何度かみてきました。
なかには精神病になった人もいます。
稲荷神を祭祀する神社では、卷族という使い(神獣)が数頭から数十頭、数百頭もついて働いているものですし、日本を代表するような稲荷神社ともなると卷族たちの数はどれほどの数かと思います。
この卷族という使い(神獣)も霊格があり、ピン切りで、霊格の低い者は人間が無知で見えないことをいいことに悪さをする未熟な卷族たちも多いのです。
稲荷という神格の使いであるからとはいっても、必ずしも安心はできないし、油断もできないのです。
ですから、そういった未熟な卷族たちの霊障(憑依)にあわないためにはどうしたよいかということですが、先ずは自分たちの心の波動を上げることです。
波動を上げるとは、心の調和です。
調和とは、過ぎた拘りや執着、不満、愚痴、怒り、妬み、驕り、欺瞞(ぎまん)嘘、などの心、行動をせず、いつも「ありがとう」「おかげさま」という心からの感謝の念、そして足ることを知ること、言葉、行動を日々実践することです。
そうすれば自ずと心の波動が上がってきます。
心の波動が上がってきますと、低級な霊や霊格の低い神獣たちと波長が合わなくなり、憑依されることもなくなってきます。
本来は、物事の成果、成功、成就というものは、神頼みで得るものではなく、自らの努力で成していかなければならないものでしょう。
それが他力信仰ではない、真の自力信仰だろうと思うのです。
信仰によって安らぎを得たり、大切なことに気づくということからすれば、信仰を持つことは悪いことではないと思いますが、しかし、人間のこの世的、物質的、経済的な欲求の為に祈る信仰は非常に低い心の波動を放つものだということを知っていただきたいと思います。
それがどれだけ霊的次元の低い世界の者たちとコンタクトされ、つながってしまい、前回の投稿で述べたように霊障となって災いしてくるかということです。
人と人とが出会うとそこで縁が結ばれることもあるように、霊の世界、つまり、神社や仏閣に参拝するとそこでも縁が結ばれる場合もあります。
しかし、それはその時、その人、その時の心の状態にもよっても縁ができるか否かです。
霊格の高い神社の神(人の上の神であって天地宇宙創造の絶対唯一の神ではない神)の場合、人間が多少の粗相をしても寛大な心で見守るのですが、霊格の低い祭神の場合、その卷族として働く使いたちもまだまだ未熟で幼く、悪さをするような霊たちも多いのです。
このような理由からお稲荷さんを信仰している人、神棚に稲荷神社のお札がある人は、これまでの自分たちの祀り方をもう一度見直してみてどうでしょうか。
これまでのように祀っていくならば、ちゃんと礼儀をつくして(1日と15日を目安に)行うべきだし、祭りごとは負担ばかりだし、形式的な祀になってしまって無い方がいいと思われるならば、これまたちゃんと礼儀を尽くして御帰り頂く手はずを取らなくてはなりません。
御帰り頂くときは、これまでお世話になった神社の神官にお願いして心付けを添えて引き取ってもらうのが一番無難であり、陰で働いてきた卷族たちに対する礼儀でもあると思います。
稲荷信仰による霊障は、元を正せば、卷族たちが悪いのではなく、人間の都合によって卷族たちを翻弄させた結果による反動が報いとなって人間にかえってきたとうことです。
ほんとうの犠牲者は卷族たちかもしれないと考えれば、よくよくご利益信仰を見つめなおす必要があろうかと思います。
最後に、神社、仏閣で祭祀されている神と呼ばれている存在、仏と呼ばれている存在は、大宇宙、天地創造のgod絶対唯一の神とは違うと考えていますことを述べておきます。
大宇宙、天地創造の神が全ての生命をつくられたと考えるとき、野の花一輪にも神の意思が働いていると観じられてきます。
したがって、godはどこそこの人間が作った建築物に宿っているようなものでは決してなく、全ての宇宙空間に存在し、私たち人間の心の内にも神性仏性として備わっているし、自分が意識をすればいつでも私たちの心の内に神がいることになるのではないでしょうか。
神社仏閣で祭祀されている神と称するもの、仏と称するものは、あくまでも人間の上の神であって、god絶対唯一の神の下で働く、神格をもった自然霊であると思うところであります。
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コメント一覧
興味深いお話ですね。
家から3キロほど行った所にある商店街から少し離れたところに、稲荷神社があります。そこに言ったときに驚いたのは、なんとなく雑駁で薄汚いものを感じて、ここは神様がいるところでは無いと感じました。ともかく、この地をお守りいただきありがとうございますとお礼だけ述べて戻ってきました。
別の時に、ある場所を探して山裾を登っている時、不動尊というのを見たので、お参りしました。中に入ると、ちょっとした丘に登っていく道があり、そこを上り詰めると、上に稲荷神社ありました。これも、お礼だけ言って戻ってきました。その後、2,3日ほど不思議な夢を見ました。夢の中で、そばに水色のはかまをはいた神官の人がいるのですが、私が境内を歩くに連れ、足元に幅広の紐がしゅるしゅる伸びてきて、なんだか行く方向を決められるような感じでした。さらに別の場面に変わると、巫女さんが現れ「これ以上行ってはいけません」と言いました。そこで目が覚めました。きっとお礼だけであっても、あの小さな丘は特別な結界の場所で、人が登っていくべきものではなかったのだろうと思います。それ以来、そちらの方には足を向けていません。
正直、稲荷神社というのは、どこか怖い気がしてなりませんので、今日の記事は興味深く読ませていただきました。