叱ると怒る
叱ると怒る
『こらっ~。おまえの教育が悪いからこんなことをするんだよ。』と3歳の子供の行動をみた若いパパが奥さんに怒鳴っている。
怒るほどのことでもない他愛のない様子ではしゃいでいる幼児に、パパの虫の居所が悪いのだろう。一見どこにでもある光景です。
しかし、このような家庭環境が子供にとって一番よくない環境であることに、この若いパパ自身が気づいていないのです。
叱ると怒るは理性と感情の違い。
しつけのために叱っているつもりが実は感情を爆発させているだけ。
誉める時には『さすがパパの子』といって、気に入らない時は『この子はママにそっくり』『この子はお婆さん(義母)にそっくり』という矛盾。このような状況は逆の立場もあり得る。このようなパパやママは間違いなく批判したお爺さんやお婆さんと同じ道をゆく。
愛情はあるのだが、その在り方が違っている家庭環境は意外と多いのです。
『子供の事を最優先に考えてやってきたのに一人前になったと思ったら彼女の言いなりで情けない。』一人前になるまで育てたんだからこれは立派なこと。だが、子離れできていない。自分が若いときはどうだったの?自分が歩いてきた道でしょ。
『夫の両親と20年以上も同居して我慢ばかりさせられてきたのに、感謝の言葉もない。』と言った後に『いったい私は何をしてきたんでしょう』という。
代償を求めてする行いは必ず不満がでることを知らなくてはならないし、感謝を求めてするくらいなら、しないほうがよい。まさに煩悩の炎がメラメラと燃えている状態です。
燃え上がった炎の後には必ず灰が残るように、心のなかでこれと同じことがおこればこの灰が心を曇らせます。曇った心では理性ある冷静な判断ができようはずもありません。
『自分の愛を受け入れてほしい』『自分の頑張りを認めてほしい』という気持ちは自己愛です。この自己愛に偏った大人の場合は、相手が望むことを与えること。望まないことは押し付けないことが愛の順序だと気づいて欲しいと願う。
自分中心の愛の押し付けで本当は相手の事を心から思っての行動にはなっていない。だから我慢という言葉になってくる。厳しい環境のなかで心は磨かれるものであると気づくことが大切です。大人になるということは、そういうことではないだろうか。
おろかなるものも
おのれ愚かなりと思うは
彼これによりて またかしこきなり
おろかなるに
おのれ かしこしと思うは
彼こそ まことおろかといわる。
自分は愚かだと思っている人は実は自分を知っている賢い人なのだ、逆に俺は知識もある、人よりできる、俺は、俺はと思う人こそ心の驕(おご)りがある人で最も愚かな人なのだ。ということでしょう。
自分に都合が悪い事は避けて通る。自分に都合のよい事には強気になる。
これが人の盲点であって、自我です。
しかし、都合のわるいことを避けて通る人はそのことを生涯心に背負っていくことになるでしょう。
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