神と罰

言霊
信仰をもつ者のなかに時折きかれる「神罰・仏罰」という言葉がある。
教祖や教団に対して、祭っている神を粗末にしたからとか、あるいはその信仰に対して疑問を発したり、不敬があったから「罰が」あたったんだとささやかれてきたところがあるようです。
人間は万物の霊長ともいわれ、神の子ともいわれます。
何故そのようにいわれるのであろうか。
古来より、人間は自らを律し、自ら創造し、未来永劫、自らこの地上を調和させてゆくものであるはずです。
春夏秋冬、四季折々の大自然がそのまま調和された姿であるように、人間もまた調和された存在者であります。
神仏の子といわれることの唯一の証明、それは己自身にウソがいえないこと。この一点だけが神仏に通ずる想念の働きといえる。
人間の意識は宇宙大の広がりを持つことは、「宇宙即我」という境地を以ってお釈迦様が悟られました。
そして身体をみてみると、人間の肉体構造が宇宙と同様につくられており、人間が小宇宙といわれる理由もここにある。
太陽を中心に幾多の惑星が自転公転して太陽系を成しているように、人間の肉体もまた、心臓を太陽に置き換えることができるでしょう。
心臓すなわち太陽から送り出されれた血液という太陽光線のエネルギーは各臓器という惑星に送られ細胞を生かし、機能させて人間の肉体を形成しております。
星の数と人間の肉体細胞の数についても、遠くない将来にやがて、新しい発見がなされるでありましょう。
神の子といわれる存在者であるはずの人間、この地上の社会集団がなぜ混乱を招いているのだろうか。
神の子と言われるならばもう少しましな社会がつくられてもいいはずではないか、この言葉に異論をもつ人はいないのではないだろうか。
まさにその通りです。神の子の社会が、不善の社会をつくる道理はありません。
だが、ここで大事なことを忘れてはならない。
神の子は、自ら律し、自ら創造してゆくようにつくられているということ。
大自然を神が創造したように、人間もまたこの地上を創造してゆくのです。
しかも人間は、神と同様に、自由な意思が与えられ、いうなればその自由な意思で、どう自分が創造しようと、それは神の子に許された権能(ある事柄について権利を主張し、行使 できる能力)といえるでしょう。
ところが、人間が肉体を持ち、個々の生活環境を形づくってゆくと、本来の神の子と言われる真理から離れた創造行為に移りやすくなってゆきます。
ここに肉体を持った人間の過ちがあり、肉体の五官に翻弄され不幸の原因が生じてくるのです。
自分と他を比較する相対観念は、あらゆる悪を生み出し、罪を生み出してゆきます。
しかし、逆も真なり、天があり、地があり、男女の区別のある相対する世界であるからこそ、より進化した調和を生み出すことも可能なのです。
要は相対観のなかで何を学び得るのかである。
これまでの人類史は、調和されていた期聞か短かく、不調和を創造してきた期間の方が長く、罪をいろいろ重ねてきました。
小さくは隣人との確執にはじまり、他民族との戦い、人種差別、他国との戦い、宗教や思想による戦いと殺戮は限りなく繰り返されてきた。
神の子のあるまじき罪を、悪を、生み出してきたのです。
人間は、自由な意思と、自由な創造力を与えられ、それが神の子としての当然の権能として行使できる立場にあったのであるが、反面、その権能を行使する人間の不調和な想念行為こそが今日の悪をつくってきたのです。
本来、人間の本質は神仏の子です。
神仏の子であるがゆえに、その罰は己が償わなければなりません。
しかし、神仏が神仏(神の子)を罰することはできません。
神仏の子(人間)は、神仏そのものであるからです。
これは人間の心に神の意識が宿るという意味である。
神を祭り、仏をあがめ、手を合わせることを拒めば罰が当るとする考えや思想、掟がもしあるとすれば、それはまったく、人間を知らぬためにおこった、いわばある目的をもった団体維持のための自己保存にしかすぎない。
神は人間に罰を与えるどころか、不幸な者ほど思いわずらうのが親の情というものであり、神仏の心は人間の心と少しもかわりないのである。
間違っても、神仏が人間に罰を与えると考えてはならない。
蒔かぬ種は生えぬ、蒔いた種は刈りとることが真理であり神理であり、法則であり、摂理であり人間に課せられた天命といえるのではなかろうか。
(次回は17日、木曜日に投稿予定しております)タイトル「夢の意味するもの」
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