神と仏の違いは?

言霊巷の、とある治療家が『私は神です。震災で生き残った人たちは私が救いました。』と言っていたと、そこに治療に行った方が話してくれた。

実は私も10年ほど前にこの治療家を一度だけ訪ねたことがあるのだが、完全に動物霊の支配下にあり、このような狂言を吐く愚かな人間にも傾倒していく人たちがいることが心配でならなかった。

しかし、この治療家、金銭の問題やその他のスキャンダルで良からぬ風評が増しているのだが、当の本人はそのことに気づいていないから気の毒としかいいようがない。

『神と仏とはどのようなものですか?』という問い合わせがありましたので、きょうはこのことについて述べてみます。

神とは大宇宙を支配する大意識のことです。と申し上げたい。

私たちの住む地球、そして、太陽系の惑星たち、このような一糸乱れぬ運行を統御するエネルギー、さらに、大宇宙の営みを統御するエネルギーは一つの法則として存在しています。

森羅万象ことごとく、このエネルギーである大意識を離れては存在しません。

太陽も、地球も、人間も、素粒子も、すべてこの大意識の経綸のなかで生かされ、生きています。

仏とはそれでは何を意味するかといえば、神の大意識と不離一体の境涯となった、悟った人間をいうのです。

その心には愛と慈しみの想い以外はない。

したがって不離一体という意味において、大悟の心境は神といえるかも知れません。

何故なら、悟った人間は、愛と慈悲だけの想念であり、不満や愚痴、怒り、嫉み、恨み、こういった思いは全くないからである。

大悟して愛と慈悲の心だけになったからといって、その人間は神であるかというとそうではない。あくまでも人間である。

モーゼやイエスは、さまざまな奇跡をおこし、人びとを救い、導きました。それは神人合一の境涯まで己自身を高めたから成せる業である。

しかしながら肉体を持った人間は、仮に大悟を得たとしても、神になることはできないのです。

なぜかというと、物質界(地上)には物質界の法則があって、その法則の枠を越えることはないからです。

その枠とは意識と結果の枠です。

これまで何度も申し上げてきたように、物質界(地上)での意識は人間の意識を含めて、10 %の意識によって成り立っています。

氷山のイラストで分かるように水面に出ている部分は全体のわずか10%にすぎません。あとの90%は水中に潜在しています。

氷山

この3次元の物質世界は波動の荒い世界であり、100%の全体意識のうち、10%の意識しか働いていません。

これは、大宇宙自然界の法則であって、その法則のなかで魂の活動ができるということになります。

そのために、通常は四次元以降多次元の世界については、見ることものぞくことも普通はできません。

そうした環境のなかで万物は生かされて修行するのです。

人間はその心境に応じて心がひらかれ、その拓かれた意識の枠を、20なり30に発展させることもできます。

拓かれた心の段階的境涯によっては次元のちがった世界を知ることも可能なのですが、しかし、だからといって四六時中そのような意識を働かせていることはできないのです。

そこが肉体をもって生きるこの物質界である地上生活の限界だということである。

したがって、大悟し、大宇宙(神)の意識に同通したといっても、万物を生かし続ける神そのものになることは、肉体があるかぎり、できない相談なのです。

仏という名称はこうした神の境涯まで悟った人という意味で使われているわけです。

巷間(こうかん)、いたるところで神人が輩出し、我こそはといって、多くの信者をかかえていますが、そんなものではありません。

霊視や霊聴ができ、奇跡をおこしたとしても神ではありませんし、成り得ません。

霊視、霊聴にも段階があります。

動物霊に支配されている人間にも霊視、霊聴ができます。

動物霊に支配されている人は自分を神だと語り、当て事が好きですが、言葉も理論も一貫性がなく支離滅裂ですからわかりやすいものです。

真理についても同じです。巷間の神人?が説いているその内容が、言葉、理論として通用するかどうか、それが問題です。

大事なことは言葉、理論が裏付けられ、霊的な事実があり、さらには教祖と称する人の生活行為がどうであるかです。

言行不一致のところがあれば、どんなうまいことを言っても、動物霊か悪霊に支配されているとみて間違いがないでしょう。

正しい生き方の法則、理論というものは神や聖人をつくるためにあるのではありませんし、人類の深奥の愛と慈しみを悟るためにあるのです。

悟りとは、己の過失なり、欠点を修正し、二度と同じことを繰り返さない想念行為を意味し、その実践のなかでしかうまれてこないのである。

その悟りの積み重ねが、やがて大悟につながり、一切の執着から離れ、煩悩にふりまわされぬ心境に到達できるのです。

一つ一つの悟りが、己の調和を確立してゆき、地上の大調和に欠くことのできない核となってゆくのです。

神、仏とは以上のような意味を持ち、正しい生き方としての法則の目的は、仏への絶ゆまぬ精進にあるといえるのです。

『小悟すること暇(いとま)なく、大悟することこれ能(あたわ)わず。』

(小さな気づきは日常的にあるのですが、本当の悟りというのは適わないものですね。)

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