子どもの性教育

結婚

結婚と子どもの誕生

夫婦親子の縁があの世で決まると、まず親となる霊が、それぞれの縁によって生まれてゆくのを、子どもとなる霊はあの世から見ている。

親となる人が生まれ、成長してゆく、結婚をする。

すると、あの世からそれを見ていた子どもとなることを約束した霊は、いよいよ自分が肉体を持って生まれてゆく時がきたと、地上から送られてくる信号を待つことになるのである。

結婚して夫婦となった者から信号が送られる。それが夫婦の性行為による心の波動である。

子どもとなることを約束した霊はその波動に乗って受胎されることになる。

子どもとなる霊が完全に母体に入るのは「オギャー」と生まれた瞬間であるが、その間子どもとなる霊は、自分が宿るべき肉体が、母となる人の胎内でどのように成長するのかを見守り、自分特有の心の波動を印象してゆくのである。

そのことによってその子ども特有の人相、骨格、体相等がつくられてゆくのである。

性格はその子ども自身のものであるが、体格体質には親の遺伝の影響を受ける。

「あの子はおじいさんによく似ている」とか、「おばあさん似だ」とか、あるいは親子で顔がよく似ているのは、霊(魂)の勉強の基本的な場であるその家に、その人は帰属する者であることを自分でも確認し、社会全体に対してもその霊の帰属と責任を明らかにするために、そうなるようになっているのである。

もし顔が、父母にも誰にも似ず、てんでんばらばらであると、その子は本人が名乗らない限り、またそれを証明するなにかを持っていない限り確認のしようがないが、顔がどこか似ているから、顔を見ると「どこの子だ」ということがわかる。

そうすれば社会に対しても、その家全体として責任を持つということの自覚を持たなければならないことになるということだ。

顔立ちだけのことではなく、親に似ぬ子は鬼子というが、そういう子どもは特別の使命を持って生まれている場合が多い。

霊はいつ肉体に宿るか

人間の魂はいつ肉体に宿るのか。妊娠3カ月ごろになると、あの世に居る魂は胎児の体に入ったり、あの世に帰ったりするようになる。

子となる霊(魂)は妊娠の全期にわたって、自分の霊を宿すべき肉体がどのように母となる人の胎内で形づくられてゆくかを見、自分独特の印象を刻んでゆく。

霊が完全に肉体に宿るのは、「オギャー」と生まれて空気を吸った瞬間である。

完全に肉体に宿ると、その霊は過去世のことも、あの世のことも全部思い出せないような仕組みになっている。魂全体の90%が潜在してしまうからだ。

そうでないとあの世とこの世と混同して混乱し、地上での勉強に支障が出やすいからである。

まず現在意識が開かれ、眼、耳、鼻、舌、身の五官による認識が始まるのだが、教わらなくてもお母さんのおっぱいに吸いつき乳を飲み始めることをみればわかるように、先に本能がめざめる。

そして、悲しければ泣き、嬉しければ笑うという幼児の姿に感情がめざめを見ることができる。

やがて知性が働きはじめ、家庭の躾(しつ)けや学校の教育によって理性がそだっていくのである。

大人になってからは本人の自覚と実践(行い)によって潜在意識は次第に開発されるようになってゆくのであるが、これは一様ではなく、エゴ(自我)という執着が強いほど正しい潜在意識の開発は困難となる。

潜在意識の扉を開く為の行は、心の調和を学ばずに能力ばかりを求めて行うと、不調和な心の隙に邪霊や動物霊から憑依される危険が多いから気をつけなくてはならない。

子どもの性教育をどうするか

ある40代の父親Hさんは、娘が小学生頃から大人が見る卑猥(ひわい)なDVDを、『こういう男女のセックスを見せておけば男にだまされることはない。性教育だ。』として奥さんの反対に耳もかさず一緒に見せていたという話しをHさんの奥さんから聞いた。

とうの娘さんは現在、中学三年生であるが、最近になって認知療法の受診に通い始めた。

現代医学でいう強迫性障害の潔癖症ということで、非常に生活に支障が出るほどに言動に問題がでてきているという。

異常な手洗い、友達が髪の毛や顔に触れるのを嫌う、家に帰るとすぐに着替える、お風呂からあがるともう一回着替える、古本に触れない、人が使用したものは消毒しないとダメ、借りたDVDの消毒、毎日教科書を消毒する、制服も毎日消毒する、電車のつり革に触らない、エスカレレーターに触れない、便座に座った後のお尻が気になって仕方がない、等々。

実は、この強迫性障害である潔癖症のこの子の父親は覚せい剤をやっていた。

現代は栄養がよくなったために、小学生の女の子で初潮をみる子がいるようになってきている。

ある若い母親から聞いたことであるが、五年生になると学校で生理の教育があり、どうして子どもが生まれるかを教えられるという。

ある日、兄と一緒に風呂に入れたら、その兄の性器をしげしげと眺めながら「あんたのはりっぱね」と、その妹がいったという。

それを聞いて若いお母さんはびっくりして、それ以来、女の子は、父親とも一緒に風呂に入れることはしないようにしたというのである。

ものわかりのよい父親でありたいという男親が、早く子どもに性の理解を持たせたいということで、中学生や高校生になった娘と一緒に休むという話を聞くが、これは問題である。

最近の性道徳の荒廃、女子学生の売春、またそれを利用する大人がいることもいけないが、正しい性教育がなされないで、単に肉体的に生理的にのみ説明され、しかも教師の中には、「性の満足が人間の幸福であり、あるものを使わなければ損だ」というような露骨で挑発的な教育をする者がいる、これは教師自体の正しい教養、品性、性道徳が乱れてきた影響ではなかろうか。

「人は教育によってのみ、人となり得る」と、ドイツの哲学者イマヌエル・カントが言ったが、性教育においても同じである。

だからして、子どもの性教育は、つぎの条件が備わらなければいけない。

一、男の役割と女の役割。

二、結婚の意義、夫婦生活の秩序。

三、子どもの誕生の意義。

上記のことを教えた上で、肉体的生理的なことを説明し、その真理と秩序に反した時に不幸になり、それを悪いというのであり、自分の行為については自分が責任を持たなければならないことを教えるべきではなかろうか。

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