念と執着
私には男の兄弟がいないこともあって、小学生の頃、夏休みや冬休みの期間中は殆んど従兄弟(いとこ)の家にいって泊まり込み、川の字になって寝て馬鹿騒ぎした。オネショするやつもいた。
宿題や勉強をそっちのけで山や川で毎日のように五人で一緒に遊んだ。
50数年以上も前のことですから、今のように室内でのゲームや娯楽センターなどはない。夏の川で水遊びをしながら、はえ縄を仕掛けてウナギを釣ったり、手作りの網でカニを獲って夜の食材とした。美味しかった。
冬の山では野鳥やウサギなどの狩りをしたが、みな貴重な蛋白源の食材となった。
遊び道具は全て自分たちの手作りで、スキーやソリ、竹馬、パチンコ、コマ、バットまで何でも手作りで間に合わせた。
このような遊びが基本で自分の手作りマイホームを成し遂げたのかもしれない。
従兄弟は男ばかり4人兄弟で、私とみな近い年頃なことあり、楽しくて夏休みが終わっても家に帰りたくないとスネて叔母を困らせたことがある。
今から21年前、私より一つ年下の従兄弟である三男が42歳になった年に私は病院に見舞いに行った。
信夫はベッドに座っていた。言葉を掛けられなかった。私はただ黙って彼の手を握った。少し沈黙が続いたがお互いに胸が張り裂けそうなのがわかっている。
無言の彼は涙を流した。そして『俺が何を悪いことしたのよ。』と嗚咽しながら本音の言葉をもらした。
医師からは余命一年の宣告、骨肉腫が進んでいた。まだ子供たちは学生である。あっという間に逝った。
病気で苦しんでいる主人、あるいは主婦が、もしその病気で死んでしまったならば残された家族は不幸です。
そこで、神に念じ、どうぞこの病気を治してくださいというその心は、いったい執着といえるのかどうか、それとも慈悲の心なのだろうか。
これは立派な慈悲の心といえるでしょう。
残された家族の行く末を考えると、今ここで死なれては困る、子供も小さい、神よ、どうぞ病に苦しんでいる人を救ってください、という心が執着であるはずがありません。
但し、病に苦しんでいる本人が何かに囚われて心を閉ざし、頑なになっていれば、いかに家族や他の人が神に祈ろうが、光りが届き回復するという奇跡は望めないだろう。
またこういう場合があります。念じる人の立場です。
例えば、ある人に金を貸しました。その人が病気になって、もしも死んだら貸した金をとれない、そこで、金を返してもらいたいがために、その病気を治してくれと神に念ずる。
これは慈悲ではありません。執着です。ですから、念じる人が、どういう心で念じているかによって、慈悲になり、執着にもなるのです。
ここで念について考えてみましょう。念という言葉のなかには三つの性質が含まれています。
一つは『エネルギー』として。
一つは『願い』として。
もう一つは『循環』です。
エネルギーとしての念は、一般的に念力と言われるように、いわゆる力であり、力はエネルギーの集中されたものです。
その意味で人間の精神力はエネルギーの集まりによってできており、もの考える、思う、念ずる、これらの精神活動は、そのエネルギーが放出された姿をいいます。
ですから、集中してものを考えたり、強く心配すれば、内にあるエネルギーが消費されるのですから疲れを感じます。
しかし、エネルギーそのものはモーターを動かす電気と同様に、善悪には関係ないはずです。
ところが実際には念の使い方によっては疲れる。これは、心がネガティブ(不調和)になるほど疲れやすくなる、エネルギーの浪費につながることの証明といえるでしょう。
問題は『念』としてエネルギーが放出されるときには『願い』という意識活動があるところです。
この意識活動が、欲望を主体にしているか、欲望から離れた慈悲、愛からでたものであるかによって、その念は、その人に、第三者にいろいろな状況を生みだしていきます。
すなわち、念には、もう一つの性質があるわけです。それは、『循環』の作用です。
念は波動であり、波動は山びこと同じように、発信者に必ず帰ってきます。
つまり、悪の念には悪が、善の念には善がハネ返ってくるのです。
すなわち念波は、あの世にもただちにコンタクトされ、善の念波は天国に悪の念波は地獄に通じます。
従って慈悲、愛の心で、病気を治してほしいと念じたとすれば、その念力はあの世の天使に通じ、そして加護を受け、病気を治し、慈悲を与えたその人にも光明が与えられるわけです。
悪の念波はこの反対です。
次に執着です。執着とは『モノに拘(こだわ)る』ことをいいます。
『これは俺のものだ』、『俺はこれこれのことをした・・・だから感謝されて当然だ』『俺はあいつより偉い』『俺は有能だ』『死にたくない』等々。
想いが深く沈んでいることをいいます。
ふつう、人間の意識活動は、念と執着がまざりあって働いています。そうして一方では、比較的、念の強い人に世の成功者が多いようです。
だがしかし、金持ち三代続かずというように、やがてその反動がやってくるのです。
栄枯盛衰、いい時も悪い時もあるのが人の世の姿でもありますが、このことは下記のように平家物語の冒頭にも紹介されています。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰の理を顕す。
驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き人も遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。
この詩の意味は、お寺の金の音は、変化してやまず、永久不変なものはない」といっているように聞こえる。沙羅双樹(夏椿)の白い花の色も綺麗に咲いても散りゆくことに、栄えているものもやがて落ちぶれる必衰をみる、人間、おもいあがっても一時のこと、春の夜の夢のように長くは続かずまたたく間に過ぎゆく、荒らしく勢いのよい人間であってもやがて死にゆくもの、それは風に飛ばされる埃(ほこり)のようなものです。と詠っている。
平家物語のなかで源氏によって平氏が滅ぼされ没落していく様を表しております。
物悲しい文章の出だしですが、ある年代にきますと、浮世と言う言葉が実感として染み入ってくるのも、人の世が念と執着が混ざり合い、ぶつかりあい、念の作用である循環(繰り返し)のなかで生きているからでしょう。
正しい念は中道という慈悲、愛を根底としたものが最上であり、また、人間の姿は本来そうあるべきものなのです。
最後までお読みくださいましてありがとうございます。次回は8月22日(水曜日)に『愛と執着』を投稿予定です。無料カウンセリングお問い合わせはkandou0822@yahoo.co.jp
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