罪
仏教徒、僧侶のなかには、本来、悪はないと悪の存在を否定し、全ては善であり、悪に見えるものも実は善が悪を装っているに過ぎないと説く人がいるのだが、否、全くの間違いである。
人間の魂は本来、神の子として神仏に連なるものではあるが、悪を為すものがいることは紛れもない事実なのだ。
ああ、哀れなる哉!善に背を向け、悪への道を選びし人たちほど哀れなるものはない。
人間は霊界へ行ったからと言っても、地上時代といささかも変わるものではない。
その好み、その偏執、その習性、その嫌悪(けんお)をそのまま携えてあの世のいくのである。
変わるのは肉体を棄てたということのみである。
低俗なる趣味と不純なる習性をもつ魂は、肉体を棄てたとてその本性が変わるものではない。
反対に、それは、誠実にして純真なる向上心に燃える魂が死と共に俗悪なる魂に一変することが有り得ぬのと同じである。
考えてもみるがよい。純粋にして高潔なる魂が私たちの視界から消えるとともに一気に堕落することが想像できようか。
然るに指導者たちは、唯一なる存在を憎み善に背を向け肉欲に溺れし罪深き魂も、懴悔(ざんげ)一つにて心が清められ天に召されると説く。
読者であるあなたに問いたい。短気な性格を持った人間が、一夜にしてその癖を、傾向性を色を塗り替えるが如くに変われるとお考えだろうか。
前者が有り得ぬ如く後者も絶対に有り得ぬ。
魂の成長は一日一日、一刻一刻の歩みによって築かれるのである。
すぐに剥(は)げ落ちる上塗りではならない。
鉄に熱を加えて叩き、鋼を作り出す工程が必要なように、魂の成長も日々の勇気と弛みない努力が為されなければ向上しないであろう。
魂の本性に織り込まれ、切り離そうにも切り離せぬ一部となりきること、それが向上であり成長である。
そうして築かれたる本性がもしも崩れるとすれば、それは長き年月にわたる誤れる生活によって徐々に朽ちるのであり、織物を乱暴に切り裂くが如くに一夜にして崩れることはない。
習いは性となり、魂に深く染み込みて個性の一部となりきるのである。肉体の煩悩(ぼんのう)に負け続けた魂はやがてその奴隷となる。
そうなったが最期、純なるもの聖なるものを嫌い、死後もかつての地上の遊び場に赴いて肉の快楽に耽る。
魂が腐敗し切っているが故である。
この説明が納得できたでであろうか。
悪の軍団とは、かくの如き未発達、未熟なる霊のことであり、それが聖なるもの善なるものへの反抗心によって結束する。
彼らに残されたる更生の道はただ一つ。
高級なる霊の教唆(きょうさ)によって道義心に目覚め、懴悔のうちに一つ一つ過去の罪を償いつつ、歪める心を正し、苦しみの中に一歩一歩向上することのみである。
罪とは何か。
身体を以って為した悪だけが罪というのではなく、心に思った不満、愚痴、怒り、妬み、そねみ、誹謗、中傷、嘘、欺瞞(ぎまん)、これらが罪なのである。
善に対抗し真理の拡がりを妨げんとする悪の輩の存在を否定する言説こそ、私たちを迷わせんとする彼らの策謀であることを心すべきである。
更に、善を装い真理を説くが如くにみせて、その実は金と肉欲を貪っている偽善の者たち、霊能者、教祖の類が多いことを注視しなくてはならない。
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