愛ある信は力


アルジェリアの天然ガス施設で続くイスラム武装勢力による人質事件では既に犠牲者も出てしまった。
人は誰しも目的をもって生きていよう。目的のない人は、まずいないと思います。
人の目的はさまざまであろうが、その要約された最終目的は地上を争いのない楽園にすることである。
もしも、この目的から外れた独善なり、野望なり、あるいは混乱と争いを求める不調和が目的とすれば、目的が達成される前に、あるいは後において、目的に対する反作用が起こり、その目的に対して、自覚をうながすことになるだろう。
作用反作用は、宇宙法則の定めによるからであるが、この法則は人間の心の作用、働きにも現れる。
ともあれ、人は目的をもって生活するが、その目的達成の原動は何かといえば、ほかでもない、それはであり、である。
つまり信念だ。
信念は行為の言動力である。
ものの成否のカギを握っていよう。信念がなければ、いかなる目的も、理想も果し得ないし、人生という大目的からも外れてくるだろう。
では何故に、信は力なのであろうか。
信とは、エネルギーが集中されたものであり、力はすべて、エネルギーの集中の度合いを示すものだからである。
信が強ければ、力が加わる。弱ければ、力もまた弱い。信の強弱によって、ものごとの成否が決められてゆく。
このことは読者も日常経験されるところであろう。つまり、こうなると思うと、そうなってゆくだろう。これは何も、肩をいからせ、我武者羅に振舞うことではない。
若いうちはそうなり勝ちだが、心の法即を知ると、安らいだ心が広がるほど、エネルギーが集中され、物事が成就してゆくものなのである。
事実、信念をもって、こうなると力んでみても、心の片隅に不安があると、その力は減殺される。
また、不安があると、肩をいからす格好になってこよう。不安を打消すために、そうなってくるからだ。
であるから、信念の要諦(ようたい)は、目的に向かって、そうなると堅く思い、安らいだ心で行為するときに、いかんなく発揮されよう。
信念は、往々にして、盲信や独善に陥る。信念はもともと、個人の心の問題であるからだ。
そのため、自己の信念に対して、常に前進への反省が必要になってくる。
私たちの生活は、人と人との関係のなかで行われるので、自己の信念が正しいものであるかどうか。
その目的意識が人との調和を乱すとすれば、改めねばなるまい。
人の心を乱すとすれば、それはやがて、自分にふりかかってくるからである。
こうして、人の信念は、反省を通して、いよいよ強固となり、不動のものとなってくるだろう。
このときにおいて、私たちの愛ある信念は、偉大なる力を発揮し、人びとを教化してゆくだろう。
正しい法則に裏打ちされた信念は、何者をも恐れぬ大きな光りの輪となり、力となって、信と勇気とを与えてくれるだろう。
正しい法則は、信と行との生活である。
愛と信のない生活行為は、浮草同様、世のカルマの波に絶えず揺り動かされ、大事な一生を無為のうちにすごしてしまう。
正しい法則の理解が深まれば深まるほど、法則の真実にふれ、まず、正しい調和の因果律にそった生き方をとるであろう。
なぜなら、自分の未来は、現在の信と行との生活にかかっているからだ。
この意味において、読者は反省を通した正しい信念をもって、毎日の生活を送っていただければと願う。
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Posted by kansindo