信仰への逃避
信仰にも逃避してはならない
人生80年としても山あり谷あり、平和なときより、悩み苦しみのときの方が多い人たちもいるだろう。だが、人間には越えられない試練はない。
だから現実を改善しようとする努力を放棄して、この人生にあきらめをつけて信仰するというのは心の内面の逃避でもある。盲信狂信の信仰はこういうところから始まる。
また「あきらめさせる」という信仰は正しい信仰ではない。依存心を持たせる信仰も然りである。
多くの信仰者の中には、家庭にいろいろな問題を抱えていても、自分の心を変えようともせず、家庭の人間関係を改善しようともせず、心が苦しければ苦しいほど信仰に夢中になって、信仰という場で心を慰めて一時的に心を解放するという人達がある。
そんな信仰は一生続けてみても問題の解決にはならない。
家が面白くないから、夫婦の間が面白くないからといって、そこを逃げ出してお互いに似たり寄ったりの境遇に同情しあって仲良くしようというのは人生の厳しさから逃れようとする甘えである。
真剣に物事を改善、解決しようと願うなら自分自身のこれまでの生き方を省みることから始めることだ。
真の正道(執着のない調和された心の生き方)を知らない指導者達は、甘えで求めてくるものを純粋な信仰だと思って受け入れて、結果的には完全な人生の逃避者にしてしまうのである。
念仏やお題目を唱えさせる宗教もそうであるし、教祖という個人を崇拝させる宗教もそうである。
想念は正しく使わないと幸福にならない
中学生頃から体調が崩れ始めて病院に行ったら、うつ病だと診断されて服薬治療を始めて15年経過したが、現在もまったく症状は改善されていないといって駆け込んできた30歳の女性。
背後にキツネの霊が隠れている。いつも死にたい、殺したいと頭の中で声が聞こえて気が付けば、包丁を手にもって立っているところを家族に発見されて事なきを得ていた。
私は、同行したお母さんに質問してみた。家の神棚には稲荷神社のお札がありますかと。『はい。某稲荷神社のお札と三か所の神社のお札が入っています。』ということだった。
某稲荷神社でたむろしている野狐の霊だったのである。自分たちのご利益求めのために参拝や、そのような動機から祭る稲荷神社のお札は、野狐霊を招くことになるから、信仰については、よくよく気を付けなければならない。
家内安全も、健康成就も、商売繁盛も自分たちの努力でできることばかりであるのに、神社や神棚に向かって願い事をする必要などないのだ。
同時に、この若いうつ病の女性は真面目を過ぎて生真面目、頑固な心を持っているところが見えたので、それを修正できればうつ病が治ることを伝え、心の癖を軌道修正する必要が何より大事であることを提案し、心の学習をする約束をして帰って行った。
野狐の霊に憑依された原因は、この女性の、物事に拘り過ぎる癖、頑固で不調和な心に根本的な原因があったのである。
信仰を始めたが悩み事が改善されない、トラブルが続いている、不幸だという人は想念の正しい使い方がわかっていないし、間違っているのである。
誰しも、自分は不幸になりたいと思って生活している人は一人もないのに、むしろ、幸福になりたいと思って生活をしているのに、出てきた結果は不幸という結果であって、どうしてこうなったのかわからないという人が一杯いる。
そういう人達は想念の正しい使い方を知らなかったのである。ということは、正しい想念の使い方をすれば、幸せと思えるようになるし、そのように変化していくということです。
プラスの想念とマイナスの想念
マイナスの想念というのは、思えば思うほど自分を不幸にする想念であり、プラスの想念とは、思うことによって自分が幸福になる想念である。
心のエネルギーは誰でも同じように与えられている。それを幸福になるプラスの方向に働かせるか、不幸になるようにマイナスの方向に働かせるかを決定するのは自分である。
砂漠の砂地にはまり込んだ自動車は、いくらエンジンをかけても車輪は空転するだけで益々深みにはまってゆくだけである。そこから抜け出そうと思っていくらアクセルを踏み込んでも無駄なことである。
この砂地から抜け出すには、それだけの工夫と準備があれば抜け出せるだろう。
人生も然り、我々が心を働かせるならば、少しでも自分の人生がプラスになるように働かせなければ損であろう。
思ってもどうにもならないことを、思えば何とかなるように錯覚して、一生懸命に思ってみてもどうにもならないことはどうにもならないのである。これを迷いという。
ところが現実を直視して勇気を持って現実を改善しようとせず、心の中で逃避して観念的な夢を追う人は心のエネルギーを空転させて現実を益々不幸にしてしまうのだ。
例えば
* 女に生まれて損をした、男に生まれればよかった。
* もっと美人(美男子)に生まれればよかった。
* もっと金持ちの家に生まれればよかった。
* もっと背が高く生まれればよかった。
* もっと頭がよければよかった。
* もっと別な女(男)の人と結婚すればよかった。
等々考えていくら心のエネルギーを使ってみても現実はどうとも変えることは出来ないし、思えば思うほど不幸だという感情が強くなってゆくだけである。
女の人が「男に生まれればよかった」と、いくら思ったからといっても女の人が男になることは絶対にできないし、この夫(妻)とでなく別な人と結婚していたらと心の中でいくら考えて架空の幸福な夢を描いてみたって、目の前にいるのは現実に結婚した夫(妻)でしかない。
変えたいと願っても変えられないことを宿命というのである。運命は自分の努力で変えることができるものだ。
頭がどうであろうと、家柄がどうであろうと、育ちがどうであろうと、そういう現象的なことにとらわれてはならない。
愛とは心と心、魂と魂との一体感である。
魂だけが実在であるということに気づいて、その実在である魂と、その魂の乗りものとして現象的に現われている現実の妻や、夫の全てを愛さなければならないことに気づくことだ。
心の中の観念的な架空の夢をなくした時に夫婦が調和できるであろう。
そうした現実の努力の上に魂は磨かれ成長して大きく豊かになってゆくのである。
観念的な現実に即した、行為の伴わない夢は、心のエネルギーの無駄使いであって、その架空の想像の夢がどんなに壮大であっても、その夢によって魂が大きく成長することはないのである。
「大いなる夢を描け」と言っている宗教家があるが、現実とはならない観念的、且つ、空想的な夢を描かせることは人々の心のエネルギーを浪費させることになる。
あなたが幸福になるためには、現実逃避の心をなくして現実生活の上に調和を実現しなければならないのである。
それができてくると先が見えるようにもなるだろう。
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