心の言霊(メッセージ)


科学ではすべての動物、植物、鉱物は振動(波動)エネルギーを発しているとしています。ということは存在するもの全部がエネルギーを発しているということです。
通常、私たちが体の五官で感知できることは、ごく限られた部分で、目に見えるもの、耳で聞こえるもの、鼻で嗅ぎ分けるもの、舌で味わえるもの、皮膚で感じられるものであることは周知のとおりである。
ところが普段、気づかないではいるが実際には五官以外の感覚が働いているのです。
会話のやり取りでお互いが思うこと、感じることのなかで、心地よさ、いらだつこと、安らぐこと、怒ること、悲しむことなど、これらはみな肉体五官とは別に、言葉に心が反応した結果のことです。
言葉という意味を持った音声に反応したのです。音声は振動(波動)そのものです。意味を含んだ言葉は相手の心に入って反応を起こすきっかけになります。
言霊(ことだま)ともいいます。ですから温かい言葉や、思いやりや、優しい言葉は人を癒すこともあり、また逆に、言葉で相手の心を傷つけることもあります。
言葉という意味を持った音声は振動数として働くものだということは明白です。言葉は心から発するものであるが、その心は天からいただいた不滅のエネルギーである。
一方、宇宙大自然の支配者である只一つの天(神)は、公平にして無私、人もまた、平等にして差別のない心の所有者である。
それなのに、人の世は能力の別、好みの別、体力の別、知識の別、節度の違い、生れた環境の別があり、人によって喜怒哀楽にも相違が出ているのは何故だろうか。
働くものとその義務を怠る者、行動する者と傍観する者、学ぶ者と享楽に溺れる者、昨日を引きずる者と明日を憂いる者、また今日を生きる者、健康な者と病弱な者、自分に厳しい者と人を責めて裁く者がいる。
愛情深い者と薄い者、和合を旨とする者と争いの種をまく者、謙虚な人と自分を高く見せようとする者、責任を果たそうとする者と依頼心の強い者、足ることを知る者と欲深き者、・・・。
こうした相違が、平等であるべき人間に不平等を造り出している。しかし、天は人間を決して不平等に扱っていない。
自らの心に想うことと行うことの調和度がその人をつくり、心正しい者たちには、光明が射し、安らぎに包まれるのである。
ちょうど、青天の太陽の光が、万象万物の生育のエネルギーへと変わるように、人間の心のエネルギーもさまざまのものを育てる。
暗い心は、モヤシのように暗い環境のなかで、光りをさえぎって人間を育ててしまう。それでも天は平等に慈愛の光りを注いでいる。
その慈愛の光りを受けるか受けないかは、その人の心と行いによるだろう。
愛の言霊
愛とは寛容である。包容力である。許すことである。
もし、この地上に愛がなければ、人の世は、水のない砂漠をゆく旅人のように、飢えと渇きに泣き、他をかえりみるいとますらないだろう。
愛は助け合い、補い合い、かばい合い、許し合う、そのなかに生きている。
愛は天の光りであり、あなたの中に宿る光なのである。
地上の灯、それが愛であろう。
闇夜にさ迷う人々の心に潤いをもたらし、生きがいを与えていくものである。
心の内から照らす愛は、正に灯台の灯といえよう。
しかし、愛に溺れてはならない。愛は自分に打ち勝つ者、向上を目指す者の心の内から輝きだすものだからだ。
闇夜(執着)の世界は自らの進路さえ迷わせる。前途に何が立ちはだかっても解らないし、いつ足を踏み外すかも知れない。焦燥感に襲われることだってあるだろう。
この闇夜を支配している、ならず者の群れ、脅迫、強盗、迫害、暴行、詐欺、殺人、裏切り、不誠実などは、そのまま恐怖の世界であり、すべて満足することのない苦しみの世界である。
それは、光明を失った人々の、悪想念が作り出したものである。
闘争と破壊、暴力、武力がまかり通る世界といえよう。
慈悲深く、愛を施せる者は、自らが安らぎの心をつくり、人々の心に光明を与え、悪魔さえ支配する正しい道、天の道をゆく者だ。
悪魔に勝る道は、慈愛の心と行い以外にないであろう。悪魔は己の心の中に潜んでいる。
正道(執着なく調和して正しく生きる道)を悟って勇気と努力の実践に、偉大なる智慧が加わり、自らの欠点を修正した時、心の悪魔は滅びるであろう。
己に打ち勝てる者こそ、真の勇者といえるのである。
人の魂は、転生輪廻という天のはからいから、一歩も外に出ることは不可能なのだ。何故なら人は天の子であり、天の意識が内在されているからだ。
天は無限の進化を目指し、無限の大調和を目的としている。人の転生は、その目的のもとに永遠に続くだろう。
大自然の輪廻と全く同じで、人間だけが別ではないということである。
人がもし、この法則に反し、自我に身をおけば、その人は、その分量だけ、償いの労を課せられるだろう。身の周りに様々な諸問題が発生し、不幸への道のりを歩むことになる。
これが作用と反作用の法則である。人間は大自然の法に逆らって生きることはできない。
物質もまた、輪廻を繰り返している。集中と分散という過程を通して、そのエネルギーは永遠の活動を続けるだろう。それも、すべて外部からの縁の働きによるものだ。
原因と結果という法則を曲げることはできないだろう。物質が変化していくという結果は外部からの縁という働きによって、はじめて為せることになるのだ。
その目的は、生命の転生輪廻を助け、あるいは媒体としての役割を果たしている。つまり物質は生命維持のために欠かせない存在(媒体)だということだ。
生命も物質も、このように、転生輪廻という、天の法(大宇宙の意識)の下に、天の目的を果たすために生かされ、存在しているということである。
人は目覚めているときは、肉体を自分だと思っているだろう。眠っているときは、肉体が自分自身だと思っていない。
他からの力を受けない限り、そのときは無自覚だといえるだろう。肉体から魂が、降りて(離脱)いるからである。
親も、兄弟も、妻も、子供も、友人も、職場も、何もかもわからない。五官の機能が、何も外界から受けないからだ。
しかし、鼻の穴も、耳の穴も、ちゃんと開いている。ただ意思を動かすことができないのである。目が覚めて、肉体の自分を自覚し、夫や妻のあることを知り、子供のあることを知る。
ということは、自分にとっては、この世の一切のモノは、自分の意識があって初めて確認できる存在であるということだ。
自分という意識がなければ、この大宇宙も地上世界も、自分の肉体も認知することはできないだろう。
この意識こそ、天に通じた、本当の己の心ということだ。
不変の魂ともいえよう。
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