戒名への疑問

 

きょうは戒名について述べてみます。
戒名は戒(いましめ)を受け出家して得度し、仏門に入った者に与えられる名前であって、法名(ほうみょう)、ともいわれている。
この制度は現代仏教の発祥地インドにはなく、中国、日本で行われるようになったものだ。
本来、戒名はこのように生前に授けられるものであったが、後世になると、死者に対して、葬儀を行う際に僧侶がつける、いわば死後の名前という認識が通常となった。
これは後代、生前になんら仏教に入信していない者も、死後は仏教帰依(きえ)者として扱い、形式的に授戒作法を行い、仏門に属する者と同様に葬儀を執行したことに由来するのだが、ここには個人の意思に関係なく、お寺や僧侶たち、遺族の都合や見栄、、世間体などの都合などもあるだろう。
戒名は一般に、男性の場合は法名の下に大居士(だいこじ)、居士禅定門(ぜんじょうもん)、信男(しんなん)、信士(しんじ)と付ける。
女性の場合は大姉(だいし)、禅定尼(に)、信尼(しんに)、信女(しんにょ)。
子供には童子(どうじ)、禅童子(ぜんどうじ)、孩児(がいじ)、童女孩女(がいにょ)などの位号をつけている。
とくに高貴な身分の人にはや、院殿(いんでん)、寺殿(じでん)などをつける傾向にあるが、各宗派によってそれぞれの伝承がある。
但し、この戒名をつけるにあたっては、これまでトラブルこそ少ないが苦情や批判が多いのが現状である。僧侶やお寺からの請求があって高額な戒名に戸惑っているからである。
近年は葬儀(参照)に関しても価値観が変わってきており様々な簡略化、簡素化した形態、形式が新たに生まれてきている。
ここで、私のところに問い合わせのあった戒名に関する様々な質問の内容を紹介します。
1・お釈迦様は民衆に戒名をつけたのか?またそれを有料にしたか?
(釈迦の時代に戒名はない、勿論、金銭で戒名をやり取りなどしていない。
インドから仏教の伝わった当時の中国では自分の名前を他人に知られることを好まず、そのため実名の他に あざな、字 を付けてそれを使う社会的習慣があった。
出家の際には僧侶としての戒律を守ることを誓うと共に、「 あざな 」 を付ける習慣から 仏弟子、つまり釈迦の弟子になった 「 しるし 」 として、師から新しい名前を授けられた。それが戒名の起源です。)
2・戒名の格付けであの世の居住地が決まるのか?
(葬儀仏教と揶揄(やゆ)される現代の仏教界を表した質問だけに、見逃すことができない問題である。
この世の人間の都合で付けられた戒名の格付けによってあの世の天国、地獄が決まるならば、全く宇宙の法則あの世の仕組みは粗末なものとしかいえないだろう。
どれほど格の高い戒名を付けても地獄でのた打ち回っている者が現実にいるのである。
あの世の段階的居住地は、自身の心の調和度で決まるものだ。
人間性(霊格)の段階(参照)その意味でいえば、地位の高い人ほど権力や名誉、名声や金に執着して心を曇らせて地獄に落ちているのは、人間の愚かな業としかいいようがない。)
3・戒名がなければ成仏できないか?
(死にゆくものが戒名をつけてもらえなければ成仏できないとなると、世界の死者のほとんどは成仏できないことになる。戒名は日本独自の文化に過ぎない因習といえるだろう。
仏壇に向かった時でも一般的に故人を呼ぶときは戒名で呼ぶことはない、慣れ親しんだ本名で呼びかけたり、お父さん、お母さん、であろう。
実際に降霊する場合でもそうだ、○年○月○日に亡くなられた○○花子さんの夫であった○○太郎さんの霊よ、と呼びかけるだけで降りてくる。大宇宙と霊界の法則からいえば戒名は必要ないといえよう。)
4・戒名は個人(故人)の徳を讃えることになるか?
(戒名を付けるから徳を讃えることになり、付けなければ讃えることにならないとするなら、戒名という文化のない国々の人たち、故人たちは徳を讃えられないことになります。
故人の徳を讃えるということは後世の人たちの心に残っている故人の人間性や人格、霊格、為したことに対して称賛する行為であろう。事の本質は戒名にあるのではない。)
5・死後の戒名は自分で付けることは可能か?
(最近は自分で戒名を決めて、死後にこれを位牌に書き込んでほしいという人がいるようです。そのこと自体は何ら問題があるわけではない。葬儀会社や菩提寺の住職に相談可能である。)
6・死後も自分の名前でよいと考えていますが、それでは駄目ですか?
(本来はそうあることが望ましいことでしょう。後はそのことによって遺族の方々がトラブルにならないように根回しをしておく必要があるでしょう。)
7・豪華に葬式しないとあの世に行けないの?
(私の母は自分の葬式は質素に慎ましくやってほしい、何も要らないと時々話していたが、母の生きざまが質素そのものであったし、その通りに祭壇も最低限のものにして送った。それでも母は天上界にて生活しています。葬儀は遺族の見栄や世間体に対する思い込み、拘りが強いほど豪華で高額なものになるだけである。)
8・戒名を付けないと地獄に落ちるの?
(地獄に落ちる人の真実の原因は、生前の足ることを忘れた欲望、不満だらけの心、愚痴をいって自分の心を汚し、人に毒を食べさせた生き方、エゴからくる怒りの心、このような不調和な人生を閉じたことによるのである。)
9・戒名がないと何となく不安な気分なのですが、実際のところはどうなのでしょうか?(日本の、これまでの葬儀は必ずしも正しいことばかりではなく、現代の価値観にはそぐわないところもあります。
伝統や文化、しきたり、というものは、時代時代によって変化をしていくものですが、古い因習を変えるということは、これまでの慣れ親しんできた流れを変えることですから、当然そこには抵抗という心の反作用が生じるでしょう。
最終的には個人の価値観をどのように行動に移すかということに尽きます。戒名もひとつの形ではありますが、霊的には何ら意味を成さないものであることは事実である。)
戒名の格付け事例
「院居士・院大姉」 100万円超
「居士・大姉」 30~50万円程度
「信士・信女」 15~30万円程度
自殺は遺憾であるが作家、川端康成氏の戒名(文鏡院殿孤山康成大居士
此処に記載した金額は下限、上限もこの限りではないし、お布施(料金)や名称も宗派で異なります。地域や寺、宗派によりけりです。
遺族としては、故人を思う気持ちがありますから、ケチりたくないでしょうし、そんな弱みを突くこともできるだろう。宗教ビジネスは利益率が高くおいしいと言った人がいた。
神道の葬儀は戒名料にあたるものは無し。神葬祭に悪評が少ないのはこの辺の事情もあるのだろう。

出家ってどういうこと?

出家とは、家を捨て、家族と別れ、財産を捨てて、自己の修行のために仏の道に入ることが本来の出家であったが、現代ではビジネスとしての出家?と宗教が増えている。だから出家はしても財産は捨てないし、手放さない^_^;

院号・院殿号(生前に寺院や宗派に対して多大な貢献をした者、あるいは社会的に高い貢献をした者に贈られる号ということになっている。)

道号(戒名の上に付ける。字(あざな)に相当する呼び名という説など諸説ある。中国で生まれ、それが禅僧によって日本に伝わり、戒名の上に付けられるようになった。)

位号(戒名の下に付けられる居士や大姉という文字のことであり、性別や年齢、功徳報恩などにより異なる)

信士・信女(仏教信者として戒を保つ成人の男女に対して付けられる。成人とする年齢については、諸説あるが、18歳以上とするのが一般的。宗派により、清士・清女、清浄士・清浄女、善士・善女などとなっている。)

童子・童女(未成年の内に亡くなった剃髪・得度をしていない者に対して付けられる。       未成年とする年齢については、諸説あるが、18歳未満、4、5歳から17歳に付けるのが一般的。)

戒名の意味(院号や道号に付けられる漢字で、その人が生前どのような人物であったかが大まかに含んだ文字をあてる。 死亡してから戒名を付ける場合、遺族に故人が生前どのような人物であったか聞き、そこから戒名を決められる事が多い(例:優しい人であったなら「優」の字が付く等)。 また、生前の名前から1文字ないし2文字漢字を取る事も多い。)

戒名料(布施)の問題(前述のように日本では死後に戒名をつけるのが一般化してきましたが、その際に高額な戒名料を要求されたり、その額によって戒名に差がつけられたりする事例があり、仏教界の内部からも批判が出ていることもあります。戒名に執着すると結局は金がかかることになるのだ。)

しかし戦後、そこまでの貢献をしていない人物に対しても、本人もしくはその遺族からの依頼により、院号や院殿号を望む者が増えたのである。

そのため院号を望む場合は、相応する布施をした者に対して付ける号となり、戒名の高額化につながった。
本来は生前に授戒して戒名が授けられ、その者の布施行により寺や院が建てられ、その故人の戒名を採って寺や院の名が付けられるという順序であった。
院号は本来、大寺における塔頭の「○○院」などと付くものであった。にもかかわらず金銭によって「院号」を買う者が増えたことが、またそれにより戒名を付けてしまった先代の各住持などの判断が、「戒名料」という風習を生むに至った。
結果的に、「戒名料」の額によって戒名の文字数が増えるという「戒名の相場」という概念が出来上がり、戒名が宗教ビジネスの一環になるという問題が起こっている。
戒名については寺の都合や遺族の都合なども絡み金銭に対する欲望や、遺族たちの虚栄心なども拍車をかける原因となってきたのだ。
個人の供養や天国に昇ることには何ら関係のない戒名であるが、全ては欲絡みの問題に過ぎないのである。
この機会に戒名について考えてみるのも、やがてゆく道の障害回避に参考となるのではと思うのである。
きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。ランキング参加しております。、下のバナーをポチッとクリックして頂ければありがたいです。^_^