心のスモッグ
未熟者 より: 2013年7月14日 10:25 AMにコメントをいただきました。下記コメントへの返事を兼ねて私の見解を述べさせていただきます。
会社内での人間模様は自分の思うようにいかないと怒りだす人が何人かいて、その人達によって多くの同僚たちが精神を病んでいる有り様です。
私は観童さまのブログを昨年の年明けあたりに初めて訪問しましてから常に拝見させていただいております。
一個人の問題だけではなく、家庭、社会、世界、人類にまで問題提起をし、考えさせられる内容に読みいるばかりです。
他に類を見ない希なる内容のサイトですから、是非多くの方々に読んでいただきたいものと思います。
人間は大自然から学ぶことがあると思うのですが、その点について具体的にお話しいただければありがたいです。 よろしくお願いします。
返信
心は太陽のように、貧しい人にも富める人にも、わけへだてのない公平無私の意識である。
嘘の言えぬ心こそあなた自身でありましょう。
ついこの間まで雨が降らずに農家の畑は乾き、作物が成長しないと心配されていたが、今度は毎日雨が続き日照不足の観がある。
しかし、長雨もだいぶおさまり、太陽のひかりが地上を照らすようになってきた。
人間はいつも足りないことを嘆き、過ぎたことにも愚痴を言いがちである。
今の季節の私が住む岩手山麓は、朝の温度も20度を切るぐらいで静かな風は肌にも心地よく、大きく息を吸い込むと爽やかさが体の隅々まで いきわたる。
私は毎朝ウオーキングのあとに、家のデッキでしばらく椅子に座って庭の野鳥に視線を向けている。
巣箱から巣立ちしたスズメのひな鳥に親鳥が餌を口移しに与えている光景に頬が緩んでしまう。
本能のままにひたすら子育てをする野鳥の姿をみていると、育児ノイローゼなどはなく、時期が来るころにはしっかり自立をさせていることに感動すら覚えるものだ。
野鳥の姿を見ながら、この大自然の摂理と人生について思索をめぐらしてゆくと、この両者の間には垣根はなく、垣根をつくっているのは人間社会だけであり、自然は人間の生き方を身をもって教えていると思われてくるのである。
私は、人間とはいったい何者なのか、そして人間はいったい、何のために生まれ、なぜ仕事をし、苦しみを背負い、老いて死んでゆくのであろうか、という問題について、様々な角度から追究していた頃のことを思い出していました。
ふと耳に入ってくる声は林の奥で鶯(うぐいす)が鳴き、目の前で雀がさえずっています。
朝の澄んだ空気と、緑と、太陽の光の下に自分を置くと、いかにも大自然に包まれ、生かされている己を発見して、都会では味わえぬ感覚を覚えます。
自然のこうした美しい環境というものは、太陽の熱・光のエネルギーによって育まれる。
太陽の偉大さに、いまさらながら脱帽せざるを得ません。
私たちの肉体は、その環境に適応して保存されるようにつくられています。
寒い冬は、その寒さに耐えられるように、皮膚はちぢみ、体内温度をコントロールし、反対に暑くなれば、皮膚は膨張し、毛穴から汗を出し、放熱作用をつづけています。
内臓諸器官は常に活動を続け、人体という安定された小宇宙を維持しています。
肉体の諸機能を静かにふりかえりながら、ながめてみると、そこには、いいようのない偉大な働きを想像することができます。
″神秘″というすなわち、大自然の環境をつくり出している目に見えない力、全能のエネルギーこそ、宇宙意識の現れでなくて何といえるでしょうか。
そうして、その心の現れこそ、慈悲であり、愛の姿といえるでしょう。
ところが、その心について私たちは、これをどこまで理解しているでしょう。
おそらく、心とはこうだと、はっきり答えられる人は少ないのではないでしょうか。
あの人は精神状態が悪いとか、心の広い人だと簡単にいうけれども、では精神とは、心は、となると説明に窮します。
万物が生命と同居している事実は誰も否定出来ません。
物理学では、物質がエネルギーと同居している事実を証明し、エネルギーとは仕事を為し得る能力であるとしています。
そうしてその結果、物質はエネルギーであり、エネルギーは物質であるとさえいうことが出来るのです。
目に見られる違いは、物質という集中された次元と、拡散されたエネルギーの次元の差だけであり、しかも両者は常に併存しているということがいえましょう。
また、質量は不変であり、エネルギーは不滅であるという事実も実証されています。
たとえば、密閉したコップの中にマッチ棒を入れて燃焼させても、全体の重さは変りませんし、マッチ棒はコップ内の酸素によって燃え、炭素や炭酸ガスに変化しても、全体の重さの変化はおきないということです。
私たちの肉体も大自然の中で存在している以上、大自然の法則を無視することは出来ないでしょう。
生老病死という掟を誰も破ることが出来ない事実を知れば、自明の理といえます。
形あるものはいつの日か崩れ去る事を仏教では諸行無常と表現しています。この言葉は崩れ去ることのみを表現しているものではなく、再び生命が誕生する循環の法則をもいっているのであり、大自然の法則そのものといえるのです。
したがって、肉体も他の物質と同じように、次元の異なった何者かと同居していることになるでしょう。
これを、魂、あるいは意識と名づけてみてもいいでしょう。
ちょうど、物質がエネルギーと共存しているようにです。
お分かりでしょうか。
物質は運動を成し得る能力を持っているもので、それをエネルギーと称するように、人間も魂という運動を成し得るエネルギー体を備えているということである。
肉体は肉体細胞諸器官の生命活動により安定していますが、この肉体の責任者は五体を支配する船長である魂・意識の活動によって、生活を営んでいるといえましょう。
肉体の欠陥は、五体の各諸器官と船長である意識の相互関係がアンバランスになっ たときに起こるのです。
私たちの記憶も、頭脳がそれをするのではなく、魂・意識が記憶しているのです。
つまり、肉体と意識・魂という次元の異なった世界のものが不二一体となって、生命活動をしている、といえるでしょう。
永遠の生命とは、この世とあの世を超えて輪廻する、魂・意識の自分であるわけです。
いっさいの記憶を持ちながら、生き続けている肉体の生死にとらわれることによって、死はすべての終りを意味しますが、肉体を離れた自分を認識し、体験すると、そこには、死のないことに気づきます。
ただ、生きている間にこのような体験を持つ者は、ホンの一部にかぎられているため、想像は出来ても、信ずるところまでは、なかなか、いかないようです。
しかし、信じる、信じないにかかわらず、人間は、肉体が滅びても死ぬことはないし、死はあの世への誕生といってもいいのです。
私たちは旅行をするときに、いろいろな乗り物を使います。飛行機で飛んだり、自動車に乗ったり、電車を利用したりして目的地に着きます。
乗り物はそれぞれちがっていますが、乗っている自分自身は少しも変らないのです。
魂の永遠の生命、つまり転生輪廻もこれと同じで、自分の過去世は中国で、インドで、あるいは日本人として、生れ変って生き続けていますが、自分自身は少しも変っていないのです。
過去世の記憶をよみがえらす人は非常に少ない。
ほとんどの人は現在の生活だけが絶対であると思っています。ましてや輪廻の未来について語る人は絶無に近い。
そのために、無意味な人生を送ってしまっているのです。
過去世の記憶の断絶は、一つには現世は修行の場であり、もう一つは次元の相違がそれをさせているといえます。
過去の記憶がオギャーっと生れてすぐにわかってしまうならば、この世に生まれた意義は少なくなります。
もう一つは、ある一定の年令に達しても、なおかつそうした記憶が浮かんでこないというのは、自分の心の中に次元差をつくっているためなのです。
次元差とは断絶という壁であり、心のスモッグです。
そのスモッグは、私たちの思うこと、行うことの、片寄った生活行為がつくり出したものです。
私は小学生の頃から、自分は何の為に生れてきたのか、という生命の神秘に疑問を持ち、空を見上げては天に帰りたい衝動にかられ涙したことがあります。
30過ぎたころに禅堂に通い始め、自分を追究するたびにさまざまな体験が積まれ、体験を通して、生命のナゾが明らかになって来たのです。
ともかく私は、こうした体験の中から、人間は魂という意識を持って生きつづける永遠の生命である、ということを知り、限られた短かい肉体人生に与えられた己の役割に、全力を挙げてゆきたいと考えるようになった。
魂について、さらに明らかになった点は、魂を動かしているものは心であり、心は意識の中心に存在するということです。
私たちが生活の場の中で、さまざまな行為を指示するものは、意識の中心である心であり心以外のものは何もないということです。
もっとも私たちの肉体は、神経の働きで心臓や内臓器官が動いており、肉体舟全体の行動は、魂の中心である心が支配しています。
したがって、心臓や内臓は心とは関係がないとみる人もいるかも知れませんが、心の動きは内臓諸器官に大きな影響を与えています。
神経、つまり自律神経は心から与えられたエネルギーを吸収しながら活動していますが、それだけに心の波動を強く受けて動いています。
病気の殆どは心因性によるところが大であり、怒ったり、悲しんだり、愚痴ったり、こうした自己保存が重なると、肉体にさまざまな障害が現れ、病気になってゆきます。
心が片寄ると、自分だけの問題なら病気となって現れますが、対外的に影響を与える場合は、事業不振、家庭不和、公害、災害などに発展してゆきます。
物質文明が発達するにしたがって、人間は普遍的な自分自身の心を失い、物質文明の虜になってしまいます。
物質文明は誰のためにあるのか、文明のためか、人間のためなのか……。
人間はいつのまにか主客を転倒し、文明に奉仕する人間になり下がっています。
愚かというほかありません。
欲望のためには手段を選ばず、すべてに自己中心的な考えが根底にあるので、世の混乱はいつになっても治まらぬというのが、現実でありましょう。
大自然をみると、私たちの眼前にひらかれている姿は、法則と摂理のルールにしたがって、動物も植物も鉱物も、互いに調和されています。
自然は、正しい循環の法、ルールを示し、足ることを知った中道の真理を教えています。
動物は酸素を吸って炭酸ガスを吐き、植物は炭酸ガスを求めて酸素を吐きます。
動物は植物を求め、植物は動物の排泄物を栄養源にして育ってゆく。
両者の相互共存、これは天の摂理です。
肉食動物は草食動物をやたらと殺しません。腹がいっぱいになれば、目の前の獲物も見送ってしまう。
彼らは足ることを知り、自然の循環にそって生かされています。
したがって、彼らの生活は、人間が踏み込んで荒らさぬかぎり、半永久的に維持されてゆきましょう。
人間はこうしたルールを忘れ、欲望充足に明け暮れています。
そのために、大気は汚染され、河川や大海までが、工場排水でよごれ、動、植物の生存ばかりか、人間の生存すらおぼつかぬような状況をつくり出しています。
これらは等しく、足ることを忘れた利益追求の人間の在り方に問題があり、今や人類は大きな壁に突き当っている、といえるでしょう。
かつての日本がそうであったように、いままた中国の全土が公害によって大気も汚染され水も工業排水で汚れきっています。
結果は原因なくしてあり得ないし、現実の現象に対して私たちは、まずその原因を取り除くことからはじめねばなりません。
つまり、行為をつくっている心の在り方を正す必要があるでしょう。
諸相の根源はどこにあるか、そして人間の在り方、生きる目的、苦しみの原因などについて、つまびらかにしなければならないだろう。
大自然と人間の関係を相当な覚悟で悟らなければならない時期に在るということだ。
ともかく私たちは、まず、自分にウソのいえぬ己の心に忠実になることを心がけねばなりません。
そうして、自己保存、自我我欲という心の公害を取り除かねばなりません。
心の公害は、他人は取り除いてくれません。
何となれば、自分の肉体の支配者は他人でなくて自分だからです。
心の王国の支配者は己であるという自覚を持つ必要があるでしょう。
自分を含めて、自分の周囲で起こったさまざまな諸現象の原因は、他人ではなくて自分にあることを悟るべきです。
今日の社会の混乱と公害問題に人びとが悩むのも、もとはといえば、個人個人の心の公害から端を発していることを知るべきです。
原因と結果の法則は何人たりとも崩すことは出来ません。
しかし、この法則を知って、調和と明るい世界、環境をつくろうとするなら、この法則の偉大さに気づき、人生の目的は期せずして達成されることでしょう。
私たちの心の中につくり出されたさまざまな心の曇りを除いてゆき、平和な人生を送ることが出来たならば、人びとは人生の偉大な価値を自ら悟ることが出来るでしょう。
デッキに腰をおろし、人生の不安から解放された自分自身を、野鳥の声を聴き、目の前の林の風をいただきながら私はしみじみ思うのでした。
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