心の悪
人の物を盗んだらこれは悪だと子どもでも分かるし、人を殺しても悪だと分かるだろう。
社会では窃盗や殺人のニュースがメディアから消えることがなく、毎日のように報道されている。
このように誰もが分かりきったはずの事件が絶えないのは何故だろうか。
青少年に限らず、理性も道徳心も心得ているはずの大人までもが殺人事件を起こしている人間の心の闇を思うと哀しみさえ覚えるのである。
現職時代の警視という職業的な地位は、自覚と責任を伴った立場であったはずだが、定年退職後の老人とは言ってもこの殺人事件には人間の深い業を感じざるを得ない。
『尊厳』を傷つけられたとは言うが、心情的にはわからぬでもない。しかし、経緯はともかく80歳を超えた男が感情に負けて、心貧しく愚かな女性を殺して自らも命を絶つなどは、高いプライドと自我が強くあったということでもある。感情と怒りが許すべき愛に勝ったということなのだろう。
しかし、本来の尊厳は愚かな女性に傷つけられるような性質のものであってはならない。
尊くおごそかで侵しがたい愛と慈しみに満ちた心を尊厳というべきであって男女の諍いで傷つくようなら尊厳とは言い難いのである。
愛ある者、慈しみに満ちている者は侵しがたいし、他人が傷つけることはできないのです。
尊厳の基準も、愛や慈悲の基準も自身の心が安らかであるのかどうかであるし、愛の伴わない、許しのない尊厳は驕(おご)りであり、自我我欲に過ぎないだろう。
自己によりてのみ悪は造られ、
自己によりてのみ染汚あり。
自己によりてのみ悪は止められ、
自己によりてのみ浄化あり。
浄と不浄とは自己に属す、
何人も他を浄化するに能わず。
※自分の心で思い判断して悪しきことを行い、
自分が欲するままに自分の心を暗く濁らす。
自分の決断でのみ悪行を止めることができ、
自分の調和された想いだけが自分の心を浄化もする。
浄も不浄も一切は己の心次第
だれも、他者の心を浄化することはできない。
親を呪い、社会に不満を言い、他人の批評に心騒がせ、いつも心が燃え盛り、その心に灰を積もらせて周りも自分自身も見えなくなっている人がいる。
まこと この世において、怨(うら)みに報(むく)いるに怨みをもってするならば、ついに怨みのやむことなし。怨みをすててこそ怨みはやむ。
これは心の法則として永遠に変わることのない真理であり、怨みで勝ってもそれ以上に敵意と怨みを買うことになるのである。
健全なスポーツならいざ知らず、欲望からの勝利者が勝ち取るものは敵意であり、敗れた人は苦しんで萎縮(いしゅく)し、妬み、恨みの念まで持つ場合がある。
心穏やかな人は、勝敗を捨てて安らかに過ごす。
この社会は、日常の暮らしを戦いの場にしています。幼稚園の入園試験なども子どもたちに、もう生きるか死ぬかと言うような戦いをさせてそのお母さんたちのなかには、服やブランドで競争している人もいる。
ただでさえ、苦しむことがいっぱいあるのに、そんな余計なことまでして、苦しみを積み上げているのです。それは幸せな生き方とはいえない。
人間の一面は「どうでもいいこと」に拘り、何とかして相手をつぶそうとしたり、自分の強さや正しさを誇示しようとします。これが自我であり自己保存に偏った我欲である。
わたしたちには、無限の過去世があります。さまざまな生命として、生と死を繰り返してきたのです。
地上生活おける意義は魂の向上という一点なのですが、あの世における心の誓いを忘れていつも争いを繰り返すことはまことに愚か以外のなにものでもない。
人間は完全何魂を頂いた生命体ではありますが、この地上における私たちは決して完全なものではありません。探そうとすれば不完全なところはいくらでもあります。
しかし、そういう欠点だらけの人間同士が、相手の欠点を探しあっても自分の向上にはならないのである。
間違いを指摘することに夢中になったり、批判したり相手を攻撃しても、相手の性格が直ることは決してありません。
自分の心の持ち方を変えることで対人関係も円滑になるという作用と、相手を直そうと強制したり愛の押し付けをしたりで反発を買うだけの反作用があることを心に落としておくことが重要だろう。
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