病気に学ぶこと

病気
生まれた環境の条件
85歳のお婆さん。自費出版した自著をあげると私にくれた。口を開けば自分が若い時にやってきた仕事の内容や功績を並べて止まらない。
その一方で他人や世の中の批判、娘婿の悪口を辛辣(しんらつ)に攻撃する口調にはさすがに聴いていて耳も心も心地よいものではない。
そういう矢先に左足が壊疽をおこし切断せざるをえなくなった。車いす生活を余儀なくしているが、ぼろくそに悪口をいっていた娘婿に車いすを後から押してもらっていた。
このお婆さん、不満と愚痴をいいながら、いかほどの事もない名誉にも拘り、いつも心が休まることが無いのだが、実は定年まで教師を務めた人間である。
人間のこの世での環境は、自分自身がそれぞれ希望して選んで生まれてきた世界である。
それは、地位や名誉や家柄ではない。そのようなものは人間の造り出したものだ。
人間は生まれたときは皆裸である。
裸には、身分も階級もありはしないし、太陽の熱、光が万人に平等に与えられるように、天の慈悲もまた平等に注がれるのである。
心の安息というものを私達が悟ったならば、人間の地位、名誉、身分など非常に小さいものであり、悟る以前の自分を反省したときには全く恥ずかしくなる。
人間の価値は、心の在り方を悟って生活しているその人の状態によって定められ、学歴や地位、財力のみでその人を人格者ということはできない。
人格者とは、魂の神性仏性を悟って、已に足ることを知り、人々の調和のために、正しい想念と行為を実践している人々をいうのである。
要は社会の秩序を根本にして、「自分の心に忠実に生きる」ということであり、人間の価値をより高めて行くことである。
私達は、地獄から生まれてきた生命ではなく、誰もが天上界で一定の仏性を悟って生まれてきたのだが、環境や、教育、思想、宗教などの不調和によって、自らを、生きながら地獄の生活に追いこんでしまっていることに気づかなくてはならないだろう。
それも他人のせいではなく、自分自身に責任があることを知るべきである。
悪い結果に対して、人間はよく他人のせいにするが、それは誤りである。
たとえ他人に責任を転嫁しても、自分自身がそんなことで安らぎを得ることはできないはずである。
病気に学ぶこと
病気には、人生の乗り舟である肉体と、肉体の支配者である意識、その中心である心の病いとがある。
心の病いは、自己保存や自我我欲がほとんどの原因で、この原因が人生に必要な肉体まで破損させることがある。
肉体の故障についても、内外を問わず、良くその原因を反省してみることが、何よりも早く病気を治すきっかけになって行く。
こと肉体が、完全に正法(偏りのない中道の生き方)に適って調和されていれば、病気にはなることも少なく、なったとしても重度になるところが軽度で済むだろう。
しかし、いかに正法に則した生活をしていても、無理な体力の消耗の仕方をすればどこかに歪みを生じるものであり、自分の限界を知ることが必要である。
眠るべきときには眠り、体力をつける運動なども、エネルギーをより蓄積するために必要な方法だ。
日中や、眠っているときや目をつむっているときに胸が息苦しくなる、あるいは静かにしているときなどに頭がファーっとしたり、どこかへ行くようにふわふわしてきて、心臓が乱れたり止まりそうな現象がでることがある。
さっきまで何度もなかったのに、出先で急に肩や背中が重くなった、急に頭痛がしてきた、動悸がしてきた、めまいがしてきた、息苦しい、特に病気という病気がないのにこういったことがある。
これは多分に霊的な影響による現象で、日常生活の中で知らず知らずのうちにどこか霊的なスポットに出かけたとか、あるいは人が大勢いるショッピングセンターに行ったとき、電車に乗ったときなど、人に会ったあとなどに発生する場合が多い。
自律神経失調症と診断されて自分は更年期だから仕方がないのだと思っていたが、霊的な影響によるものだということがわかって適切な対処するようになってからはパニック状態に陥ることがなくなる人たちもいる。
しかし、このような原因による症状の場合は医者に診て貰っても病態がみつからず、心臓病とか精神的な病気だといわれるくらいがおちである。
このような現象の起こっている人々こそ、良く生活を改め、偏りのない正しい生き方を学び、毎日毎日の想念と行為を良く反省して、心というものがいかに重大なものであるかを悟るならば、このような現象は少なくなってくる。
更に、心が調和されることにより、二次的に潜在能力を開き、霊的なパワーアップをする人もでてくる。
もし読者の中に、このような現象の出ている方がいたなら、それは霊的なことが作用している場合もあるということを知って戴きたい。
愛や慈しみの欠乏
精神的疾患者の中には、後天的に自分自身の心の不調和によってうつ病や、ノイローゼなどに陥っている人々が多いが、これらは自分の状況を知り、正しく心を調和する勇気と努力をする以外に回復の可能性はないといえるだろう。
いずれにしても、私達は、その病状がどのようなものであろうが、原因に対する追求を怠ってはならない。
そしてその結果、良く反省して、心の浄化を計ることが欠かせないのである。
家族の一人一人が自ら、また互いに、心と心の調和を計って明るい家庭を築いて行けば、自然に安らぎの生活は生まれてくるものだ。
病気を、恐れてはならない。かといって、おろそかにしてもならない。
早期に、医学的にその原因を追求して貰い、必要な治療することが早く快癒する道である。
但し、うつ病、パニック障害、その他の精神的疾患に関しては、心療内科、精神科の投薬治療だけでは改善は期待できないところもあるというのが実態でもある。
いずれにしても、生活上の諸問題や病気もそうであるが、結果を良く反省し、良いことはより伸ばし、悪い想念と行為は捨てて、正しい心になることが必要であるし、それが正しい反省ともいえる。
そうすれば、心が浄化され大宇宙の光によって心身が満ちてくるため、邪悪な霊に影響されることもなくなる。
常に病気で沈みがちな人々は、自分自身の心の在り方を良く反省し、その原因を知ることが必要である。
人間は肉体がすべてであるからといって、内面のことを考えないで医者などにかかっても完全とはいい難い。
心の内面こそ、本当の自分自身であることを知ったなら、肉体の故障の修理も、より完全にできるといえるからで、こうした結果、自分の治癒力を信じることによって、その効果は現われてくるものなのである。
肉体的に不調和なときも、守護霊は常に私達を内面から見守っている。
魂の縁者たちも心配している。私達は、その事実を知ることにより、毎日毎日を平然として自分勝手な不調和な生活にすごすことはなくなるだろうし、常に反省をして、より良い調和のとれた生活を送るようになるであろう。
一般にノイローゼといわれている人々の多くは、感情の領域がむらで、本来の自分の心の状態を失っている。
この原因は、根本的なところで人間としての愛や慈しみの欠乏にある。
またこうした人々は、心が狭く、孤独で、常に不安定であり、安らぎがなく情緒に乏しい。
それは灰色の人生といわざるを得ない淋しい人達だ。
心の中は、閉鎖的で、健全な精神とは言い難い状態にある。
このような人々の多くは、不調和な世界の霊にも影響されている自分の暗い想念が、内在する心の光をさえぎり、苦しみの意識界に通じているということだ。
当然、肉体的にも不調和になって行く。
子供達との関連においてそのことを考えてみよう。
人々は良く自分達にできなかったことを子供に託して、その希望を果たそうとする教育や、虚栄心による子供への束縛を原因として不調和になる場合がある。
肉体は確かに与えたものだろう。しかしそうした場合、その魂まで両親の独占物だと考えていることに誤りがあるということを知らなくてはいけない。
全くの親子であっても、魂は個の生命であって、自ら相違があるのだ。
なぜなら、魂も親が与えたものであり、親の分霊だと思うなら、その思考性や行為のすべては同じでなくてはならないだろう。
残念なことに、親のいうことを利かない子供が多い事実を考えなくてはならないのが現実なのである。
従って親達の、子供の環境や教育についての育成は、溺愛でなく、家柄や自己保存的な考えを捨てた純粋な心からの愛でなくてはならないということだ。
子供自身が自分の思い通りの道を歩くと、世間の両親の中には「あんなに可愛がって育てたのに、親の恩を忘れて、親不幸をしている」などと嘆く者達がいる。
しかしこれも親のエゴイズムであろう。
報いのみを求める、そんな心だから子供達は自分達の真実の道を求めて去って行くのだ。
親子相互の対話の不足を考え、子供の人格を認めてやることも親の愛というものだ。
対話のない家庭の中には孤独な子供達が育ってしまう、これが現実だ。
だから両親は、子供の魂の乗り船は、互いに約束して与えたのだということを忘れてはならない。
与えた、と思う心があるから、親の尺度ですべてを計り、子供に注意などをする。
親の意志に反したことをすれば、きびしく怒り、肉体はおろかその心まで束縛してしまう。
私達は、こうしたことを良く考えて、子供達を指導することが必要であろう。
最も調和した自由自在の中で、良く心の在り方を教え人間としての道を教え、感謝と報恩の意味をさとし、両親が実践模範を示した生活環境を造り出すことが先決なのである。
純真な子供心を、素直に育ててやることが、より良い豊かな心を大きく育てる道、これが本当の愛情というものだ。
きびしく叱ることも、正しい中道の判断によれば、その真実が子供心にひびくことなのである。
子供と親の対話、日々の行動が、心の行き来が、愛の心をより豊かに育てて行き、健やかな子供の姿をみることになる。
子供の心もそこで広く人々のなかに調和され、自分自身の魂を磨いて行き、円満な人格を作って行くのである。
親が子を放任し、正しい道をその愛情によって示さない生活の中で育てられた子供達は、気の毒といわざるを得ない。たとえば学校の成績ばかりを気にしている親達の心は、自己慢心にしかすぎないということだ。
仕事を理由に子供の心を知ろうとしない親も然りである。
心の中の知識の領域だけが発達しても、心にゆとりがなく情緒のない人間は、人生での正しい判断すら決定することはできない人間になっていき挫折を味わい、社会に失望する若者が増えている。
智性という領域内にある知識は、人生をいかに正しく生きるかという、調和した生活をするための早道であって、自己保存、自我我欲の道具ではない。
智策、智に溺れる愚を犯してはならないのである。
知性と理性、本能と感情、そして想念の領域が調和された、円満な人間に成長することが人の道である。
社会への警鐘として申し上げたいが、試験、試験の人生は、自己保存的な、かたよった人格を造り出し、人間本来の心を失ってしまう結杲にもなろう。
また本能的な領域だけが発達しても、不調和な人格を造ってしまうものである。
いずれにしても心の不調和が、想念に曇りを造り出し、内面にある慈悲と愛の光をさえぎり、精神的疾患の原因を造り出してしまうというわけである。
更に、その暗い想念意識は、不調和な霊によって影響され、人生を灰色と化してしまう。
不調和な満ち足りぬ心の病は、偏りのない生き方を悟って実践し、その法則に沿った生活以外、修正することは不可能である。
また不自然な宗教を信じ、盲信、狂信して自分を失い、心に安らぎを失っている人々が非常に多い。
神仏の罰が恐ろしくて、組織の細胞になり、心の自由を失ってしまっている人々がいる。
だが、神仏は絶対に罰など与えはしない。
可愛い自分の子供を誰が不幸にするだろうか。
神仏の子として在る人間に、なぜ神が罰を与えようか。
太陽の熱、光のエネルギーは、地位や名誉や金持ちや貧乏人に差別を示しているだろうか。
天の慈悲と愛の光は私達に全く平等に与えられている。
貧乏人に生まれたのも、自分自身がその中で修行しようと、自らの魂が決定して出てきたのだ。
過去世の魂は、かつては王侯貴族であったかも知れない。
たとえ貧乏人、富豪の家に生れようと、魂の修行には何らの変わりはない、ということだ。
経済力や人間の地位、名誉などは、人間界で造り出したもので神仏の意志ではない。
肉体的に欠損があろうとも、自分の魂、すなわち心が、立派な道を悟っているならば、人生航路を正しく操縦できるということを悟るべきであろう。
このことは肉体の病においても同じことが言える。体が病んでも心まで病ませてはならない。
魂は、その欠損のある体で修行することを自分自身で望んできた尊い心であることを忘れている。
このような自分自身の不満な心を、神仏に、信仰の対象として求めることは、不自然な偽善者達の食いものにされてしまうということを、私達は良く悟らなくてはならない。
よくよく見極めなければ魂までひ弱な人間にされてしまうことになり、その結果、自分自身を失って小さな枠を心に造り出してしまう。
人間とは、まことに愚かしい者達である。
私達の心は本来、過去の記憶をよみがえらせる能力を持っており、過去において正しい人生の生き方、法則、真理というものを学んだ人々は、不自然な教えには必ず心の中に疑問が生じるのが真実だということだ。
信仰に対しては、自分の心が納得するまで、疑問、疑問の解答へと、追及することが必要である。
「なぜ」に答えられない信仰は真の教えではないということだ。
祈らせる対象物を買わせたり、御魂と称するお守りを押しつけるような信仰、そして、様々な健康お守り、御利益グッズなどは教団のための金集めであり、真の教えではない。
私達は、大神殿たるこの地球上に住んでいるということを忘れてはならない。
自分自身に嘘をいえない自分の心、それを信ずることだ。
正しい道を、人間らしく生きることだ。
それには努力と勇気が備わらなくてはいけない。
竜神だの稲荷大明神だのといろいろ祭り、心の安らぎがなく精神分裂状態である人もいる。
こういう場合はほとんど動物霊に影響され、体もすっかり不調和になっている。
竜神だの稲荷大明神だのと拝んでみても、本物の竜神や稲荷大明神の識別もつかないで信仰することは危険である。
霊視で見ることができたり、心の眼や守護、指導霊によって確認されないものを信ずることは、己を失ってしまう結果になってしまう。
たとえ霊媒の口を通して語ったとしても、動物霊が偽称する場合がほとんどである。
神仏を分からない人々が信ずるならば、まず霊媒の人格を見抜くことが先決であろう。
私生活、その言動が正法(偏らない中道の生き方)に適ったものであるかどうか。
口先で正法の如きを説いても、行為が備わっていない指導者は、絵に描いたボタ餅にしかすぎないのだ。食えるものではない。
人間は、宗教者がいう通りに不調和なものまで祭って祈る対称物にしてしまう。
このような者に騙されてはならない。憑依する霊の100%は地獄の霊、浮かばれない魂達である。
良く正法を話し諭してその者から離れて貰うことが必要であり、影響されている人々の心を正常にもどし、正しい道の心と行ないを実行させることが必要なのだ。
喜びのある実生活、これこそ正道というものだ。
私達はもう少し、苦しみ、悲しみの原因について追及し、反省する心を学ぶことが必要であろう。
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