表裏一体
死について
私は今月5日に縁者の葬儀に出席してきました。享年72歳の男性、昨年4月に末期ガンを宣告されて以来、一年の命を灯した。
親しい人たちからの弔辞(ちょうじ)が述べられていた。
弔文(ちょうぶん)の内容は『安らかに眠ってくれ。』や『ゆっくり休んでくれ。』や『深い眠りについているだろうな。』等々の言葉がでてきます。
さて肉体を去った後の魂は、実際は眠っているのだろうか。
『千の風になって』、という歌の中に『眠ってなんかいません。』という歌詞があります。作者はあの世の実態を知ってか知らずして作ったのかは分かりませんが、うまく真実を言い表しています。
キリスト教では「最後の審判」が来るまでは醒(さ)めることなく眠っているというが、それは事実ではない。
あの世では毎日毎日が、全ての霊魂にとっては、自分で自分の心を反省し修正しなければならない日々なのです。
あるとき相談に見えた方に関わる霊をその人の身体に降霊させたら自分が借金を苦に首つり自殺した霊が、恨み、つらみを語りだした例があります。
人間が死んであの世で眠っているのなら、降霊しても人の身体を借りて語りだすことはないでしょう。
ですから死んだ後に、何もしなくても良い極楽で休息と恩恵の世界に入るというのも間違いであれば、永遠に呪いの世界に入るというのも間違いなのです。
また、死ねば直ちに仏になって、天地の秘密の全てを知り尽くすのでもなく、あの世とこの世のあらゆる問題を全て解決出来る力を持つのでもないのである。
大抵の場合は、死んだ後は、この世で生きていたと同じような状態を維持して生活することになる。
この世では目が見えない盲目な人でも心が善良ならあの世に行ったときにとてもよく目が見えるのです。あの世は心だけの世界だからです。
反対にこの世で目が見えても心に自我我欲、執着が強ければあの世に行った途端に光のない無明の世界に身を置くことになる。
だからこの世で無智(自我、執着、欲得)であった人は、あの世でも無智であり、この世で賢明(調和、愛、慈悲心)であった人はあの世でも賢明である。
この世にいた時と同じような精神状態にあり、天国また地獄といっても、それはその人が心の中に造った天国と地獄の反映に外ならない。
つまり自らの心の中に天国も地獄も作り出すことになるのです。光の使者である霊格の高いものは、奈落の底に下りて来て光を与え、その人が新しい意識の境涯へ進歩するように導き霊感づける。
このようなことは『アガシャの霊訓』のなかにも記してあります。死んでしまえば、一切の罪、一切の苦しみから逃れるのではないのである。
如何にこれまでの宗教家である僧侶や牧師、オーム真理教はじめ多くの新興宗教の教祖、拝み屋、霊能者、占い師たちが間違った事を説いて来たか、いまもその事実の相談が後を絶たない。
間違った宗教家の言うことを正しいと信じてみても、あの世で救われる事にはならないし、身についた心の垢を落すのに相当の年月を要することになる。
生きている時に、間違ったことを正しいと信じて死んだ人達は、正しい信仰をして来たという意識だけが強いから、あの世の光の指導霊に反省を促されても、正しい信仰をして来たという意識に邪魔されて、正しく反省することが出来ないのです。
素直に反省できるようになるまでには時間と年月がかかるのである。
宗教団体の講師達が、如何に、その教団に忠誠を尽くして功労があったとしても、その教団の教義が間違っていれば、この間違った教義を説いた罪を問われることになるのですから、間違った教義を説いている教団で、最も功労のあった者ほど深い暗闇に堕ちるということになる。
だから講師たちが罪を犯さず闇の奈落に堕ちないためにも、自分で納得出来るものだけを説くようにしなければならないし、教団から給料をもらって生活しているからといって、自分で納得出来ない教義は伝えないようにしなければならないのです。
しかし、現実には給料を頂く身とあればそれができようはずもないであろう。
こうして自分にも他にも罪の上塗りをしていってあの世に行った時に罪の重さに猛反省させられることになるのです。
私はいつも言うのですが、この世とあの世は、別な世界ではなく、一枚の紙のようなものであり、裏表の関係にあると。表裏一体の存在です。
だからこの世で生きる今を大事に心の成長のために努力しなければならないと。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません