生まれる前も、今も、これからも
私は宗教家でもなければ宗教団体、その他の組織にも入信もしていない。まして自分が知り得て体験し理解できることでも、それをどうこうして利益しようとは一切おもわない。
だが、ある男性から『神の存在を実感するには、どうしたらよいのか?』という質問を投げかけられたことがあります。至って真剣にです。
彼は仕事の関係で、ある寺院に出入りしていたが、住職の教えに疑問を持っていたのだった。
その彼に話した内容でもありますが、この事を理解するには、先ず第一に、宇宙生命(神)の意識とは何であるかを明確に認識する必要があります。
過去において正しいことを説いた宗教家や研究者も一部にはいましたが、それが広く世に浸透することは難しく、また長い歴史のなかにおいて、それが間違った概念のもとに信じられてまいりました。
その理由としては、宇宙の意識(神)を、限りある言葉で言い表すことは、必然的に不可能なことだからです。
限りない存在を、限りある言葉で、表現できる道理がありません。
結局いつの時代においても、神の真の実態は捉え難く、限りある地上人間の理解力では正しく理解することができませんでした。
しかしながら、皆さんも霊的存在であり、魂の内部に神性の灯りを宿しております。
程度の差があるとはいえ、神の子の資質を備えているのですから、生命の全諸相(全ての地上生命を含む宇宙全ての姿)に現れている崇高にしてダイナミックな生命力を、一輪の野の花にも、小さな子イヌにも、山の姿にも、川の流れにも感じ取ることはできるはずです。
ただし、それにも程度の差はありますが・・・・。
もう一度いいましょう。ここで言う神の子として備えた資質度合の差ということを例えていうなら、幼児が理解できない道理を小学生が理解できるように、中学生ぐらいで理解できない道理を20歳の若者なら理解できるというようなことです。
必ずしもこの通りではありませんが、解りやすく年齢で区別をしてみただけです。
実際のところは、年齢の若い人でも年を重ねた大人より人間的に大人(できている)である人もいるのです。
これは知識の多寡(タカ、多い少ない)のことではありません。
あくまでも人間の霊的資質をいうものであって、それは唯物的思考から離れた、唯心的思考がなければ心(魂)の広さ気根というものが育つことが無い。
宇宙の意識(神)の存在を認識する方法として最も身近な、その条件は、物的感覚を鎮静させること(精神統一)ができるようになることです。これが必須条件です。
世間の雑音、不協和音、いがみ合い、乱れた心、過ぎた物欲、執着、愚痴、怒り等は、きれいさっぱりと忘れ去らないといけません。
内面を穏やかに保ち、あたりを包んでいる崇高な根元的エネルギーに魂をゆだねるコツを身につけないといけません。
その段階で内部から湧き出る静寂の醍醐味(だいごみ)それが草木や動物、鉱物、など形ある生命現象の内奥の霊的エネルギーと一体となった時の実感です。
形あるものは無常なのですが、しかし、形だけではなく、背後に必ず霊的生命が存在します。
そこに共鳴し、至るには、時間と忍耐と知恵とが必要です。
が、私たちのまわりに充満する霊妙にして微妙な霊的生命のバイブレーション(波動)を感じ取ることができるようになるにつれて、自己内部の霊的生命に潜む驚異的可能性に気づくようになります。
それが、宇宙の意識(神)の存在を実感するということに進展するのです。
しかし、それは容易なことではありません。
何故なら、その存在は五官に反応して、見たり、聴いたり、手で触ったりできるものではなく、皮膚感覚で感じ取ることではないし、あくまで自身の魂で共鳴するときにしか心に広がらないものだからです。
以上のことから判断すれば理解しやすいでしょうが、
神とは宇宙の創造主であり、無限生命の根元的存在であり、その意識の全ては愛と慈悲です。
人間の魂(心)の根元には、この愛と慈悲が分け与えられているのです。
生れる前も、今も、これからも、人間は神の子です。
彼との2時間にわたる会話が終わって、『ようやくこれまでの疑問が溶けた。』と言って顔に笑みがこぼれた。
※文中用語の説明
唯物的思考とは物質を第一次的、根本的な実在と考え、心とか精神を副次的、派生的なものとみなす考え方、哲学をさす。
唯心的思考とは第一義に精神を存在の根源とみなす。精神、生命、物質、というようにです。
続きは次回まで。
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