大自然の心と人間の善我について
自然環境に恵まれた岩手山麓が私の居住環境です。
今はまだ雪景色の白一色で、寒さもまだまだ厳しいですから体を休める時ですが、雪が消えて動植物の活動が活発になる頃には私も外で動く機会が増えてきます。
裏山の木を間伐し、楢の木、栗、クルミ、赤松、唐松、山桜などをよりよく育てる為の下払い(草や笹の刈込み)をしたり、間伐した木はチェンソーでスライスして薪割り機で小割りして積み上げ、冬の暖房用に準備をします。
こういった一連の作業をすることが私の休日の楽しみでもあります。
もう少し先のことですが、春一番の鶯(うぐいす)の声は、まだ山々に響き渡る力強さはない。
そんな鶯の声を聴きながら裏山でいただく一服のお茶は、身体の隅々までいきわたり細胞と心を甦らせます。
ですが、今はまだ想像を膨らませるだけで、雪解けを待つ楽しみとしています。
こうして春夏秋冬を、いつも感じ、いつも思います。
自然界の姿というものを考えてみますと、すべての植物、動物、鉱物、そして大気、水が常にお互いに助け合う相互関係のなかにあり、単独に存在するものは一つもないとわかります。
この大宇宙自然界のあらゆる営み、現象は、一つの意識(法則)のもとに統御されていることで成り立っていると考えるのは不自然だろうか。
地上に生きる人類は、宇宙を統御している元なる意識によって生かされていると思うとき、その寛大な意識は人間に何を望んでそうしている訳ではなく、全くの無所得です。
タダで私達が生きる材料を与えていてくれます。
宇宙の意識は地球上に住んでいる私達に、これだけの価値あるものを施したからこれだけ払えという請求はしません。
そして求めません。
宇宙の意識(心)というのは無所得ですね。
その無所得の心で全ての調和を図っている姿、太陽を始めとして、風、熱、光などあらゆる諸現象のすべてが宇宙を統(す)べる心の現われであり、それこそが慈悲だろうと思います。
人間はあらゆる点で恵まれた環境下で平凡に生かされているのですが、その恵みにも馴れ合いになり、この自然に対して生かされているという実感と、それに対する感謝が案外わからないままか、忘れて生きているところがあります。
むしろお金に生かされていると強く感じる人、地位や名誉というものに生かされているように錯覚をしている人もおります。
しかし、よくよく考え、突き詰めていくとそんなものは小さく儚(はかな)いものだということも解ってきます。
お金の豊かな人からお金を取ったらその人には何が残るのだろうか。
地位、名誉のある人から地位と名誉を取ったら何がその人に残るだろうか。
私がいま持ち得ているものを全て捨てた時に残るものは何だろうか。
4年前の今月11日、三陸震災をみてもわかるように、これ以上ないという極限状態まで全てを失い、窮地に陥ったとき、人々は助け合い、支え合いました。
本当の人間の魅力や、力というものを考えたときに、何もかも取って残ったその人の人間性、徳性だけが最後に残って、それがその人の人格として見えてくるのだろうと思います。
身に着けているもの、所有しているもの、豊かさのなかではなかなか見えてこないものが人間の本質だろうと思い至ったところです。
この地上で生物の生存できる調和された環境というもの、それこそが、人間が計算できない無限の愛、慈悲の姿だと思うのは間違っているだろうか。
私たちは、その大自然の中に生かされている人間です。
その自然のルールに反して、人間がは生きることはできないでしょう。
しかし、その自然のルールに反したことが、一体どういう結果になっているでしょうか。
人間が物質文明を追い求め、その物質文明に溺れて科学の進歩をフォローできるだけの準備ができていないのに、便利さだけを求め先走った結果が原発の事故であったり、原爆による大量殺りくであったりと、心を失った時に生じた結果が公害と破壊です。
人間が物だけに溺れて、人間の本当の価値観というものを忘れた時に、人間の生存する環境も人間の手によって破壊されているのは誰もが知っています。
高度8千メートルから1万メートルの上空から見たら、中国北京上空はスモッグで街が見えないと言われています。
微小粒子状物質「PM2.5」を含む汚染の指数は現在334に達し最悪レベル、「危険度」(301~500)になったと発表されています。
これも、結局人間による限りない欲望を満たす為に物と金に心を奪われた時からそういう公害を人間が作り出しました。
この公害はかつての東京や川崎もそうだったときがあります。
しかし、終戦後の日本、特に東京の河川も空気もまだまだ非常にきれだったといいます。
公害は単純に「人が増えたからなのだ」というふうに言う人もいますが、決してそうではないでしょう。
人間が生きる環境に対して、常に生かされているという感謝の心が薄いためであって、それが一時的な繁栄と利便性だけを求めて暴走するからではないだろうか。
そして、人間の欲望である物質経済だけを追求した結果、そういう反作用が自分たちに返ってきたということでしょう。
豊かさに慢心するのではなく、常にその反作用を考えた備えがなければ、必ず公害も重大な事故も発生し、回避できないところまでリスクを犯すのです。
それも、宇宙を統べる唯一の意識が与えてくれた自然が、人間の欲望によって作り出された副産物によって汚され、そしてまた、人間自身の肉体保存にも深刻な病気を与える程になりました。
このように、自然を見ても人間が本当の心の価値を忘れて、物だけに捉われた時に様々な災いをもたらす現象が起こってきているわけです。
また、病気に乗じて宗教の誘いも活発になってくるのですが、それだって従来の信仰である他力信仰では救われる道はありません。
どんなに祈ったところで人間の作りだした公害はなくなりません。
しかし、自然はそれでもまた風を起こし、雨を降らせて汚れきった土壌をきれいに洗ってくれます。
言い換えるなら、風は空気の汚れを再びクリーンに調和させてくれます。
こういうことを考えてみると、人類は常に慈悲と愛の姿の中に生かされていることを痛感します。
ということは、そのような自然の法則、これが人間の不変的な道として一人ひとりの心の中になくてはならないものだと思えないでしょうか。
人間は今こうして生きていると、自分一人で、自分一人だけが生きているように錯覚をしておりますが、そうではありません。
動物や植物や鉱物がお互いに相互関係の中に調和されて安定しているように、我々も相手があってこそ自分がある、自分があってまた相手があります。
夫がいてこその妻、妻が世話をしてくれるからこその夫の働きというように、家庭でも大自然とおなじく相互関係のなかにこそ夫も妻も調和された、いい関係で存在できるということでしょう。
妻は夫に奉仕をし、夫は妻に奉仕をするように、社会においては他の為に尽くす努力が結局自分に返ってくることになります。
自分を愛してほしい人ばかりで地球を考えたら、いったい誰が人に愛を示すのだろうか。
自分さえよければという考え方は通用しないのです。
夫が自分を優先し、妻が自分を優先したらどうなるだろうか。
こういう生き方もまた自然の営みに学ぶならば、その調和された法則に反することがわかるはです。
人間対人間、妻も夫も、互いが互いを認めて尽くす姿勢がなくなったら、それはもう自然の法則に沿った生き方とはいえませんし、苦悩の始まりの原点はここにあることを気づかなくてはならないと思うのです。
善我
私たちの心の内には、誰にも同じように善我の姿が内在されています。
善我はそのまま大自然の法則に通じるものです。
大自然そのものが法則です。
法則は即ち宇宙の心です。
宇宙大自然の意識(神)というものは、人間自身の我で左右することはできない不変的なものだろうと思います。
こういう大自然の法則であるからこそ、人間の知識や知恵や我では介入できないし、不変的なものであるからこそ、宗教における教えもここに帰一しなければならないはずです。
しかし、その真髄にいつの日か人間の浅知恵が入り哲学化され、わからなくなってしまったわけです。
いつの間にか難しい専門用語で話すことが尊いことのような風潮ができあがり、それがかえって仏教やキリスト教の教えを難解なものしてしまって、大衆的ではない専門的な知識の集積に過ぎなくなった観が否めません。
宇宙大自然の法則というもの、この法則の中で生かされている人間であるからこそ、法則が私たちの生活の中に生かされない限り、人間の心の中から湧きあがる真の智慧というものは出てこないでしょう。
知識の段階では何にもなりません。
ここに智慧と知識の大きなきな違いがあります。
智慧は行いの繰り返しで身についた蓄積がなければ湧き出てこないものです。
ですから、自然の営みと沿うような私たちの生活、そして思うことと、行なうこと、の実践の中にこそ、人間の心の中にある智慧が湧現してきます。
誰の心の中にもその偉大な智慧が内在されているのですが、しかし、この智慧という無限の可能性をもった能力は、何かに心が拘ったり、頑なに御なったり、不満や愚痴、怒りなど、執着した途端に湧きだすことをやめます。
この智慧というのは、人間が人間として生きる為の、偏りのない調和された生き方をするときに心の内から湧きだすように仕組まれて内在しています。
ですから、「人生は今生限りだ、この世に生きている以上は地位や名誉やお金が絶対なんだ」と、そのように錯覚を起こした生き方をしていたら決して真に力のある智慧は湧き出ることはありません。
自己都合による知恵、執着による知恵、他を陥れるような知恵は悪知恵であって、必ずや自分の身に反作用として返ってくるでしょう。
人生は長くても80年か100年、その人生というものは、線香花火のようなものです。
もし、私が80歳まで生きられたとしてもあと15年と8カ月です。
しかし、人間、百歳まで生きる人は一体何人いるでしょうか。
その瞬きのような短い人生を無味乾燥過に過ごすより、有意義に過ごす努力だけはしていきたいものですね。
私たちが、一生を過ごすにあたって一番大事なこと、それは豊かな心を作ることだろうと思います。
丸い豊かな広い心を作ることです。
心は三角のように角が立ってはいけないし、四角四面で何でも堅苦しく考えて融通のきかないのも困りものです。
人を傷つけるような棘のある言葉を発してはなりません。
心はやはり、太陽のような無所得のままの、広い豊かな丸い心を作ることが何よりも大事でしょう。
その次には、何が大事かというと、宇宙意識の体であるこの地球という宇宙船地球号を、そこに住む万物の霊長である人間として、地上を調和された平和な楽園にすることだろうと思います。
人間の体は、六十兆からなる細胞集団です。
しかし、地球を一つの生物として考えてみますと、私達は、その生物の栄養のバランスを取っている唾のような、微菌みたいなものかも知れません。
それが、お互いに喧嘩しあっているということは愚かしいことです。
大宇宙から見ると人間の姿は顕微鏡でも見えないくらい小さな存在でしょう。
その肉体を持った人間同士が争い、自分さえよければいいんだ。
あるいは、国境を定めて、ああだ、こうだといい、肌の色が違うからと言って人種差別をし、生まれた環境が違うと言っては奴隷として扱う。
本来、国境なんてものは人間が人間の都合で勝手に作ったものでしょうが、それも必要と言えばそうかもしれません。
しかし、その事によって人間同士が争い、いがみ合い、殺し合う必要などどこにもないはずです。
地球上の人類は、一つの太陽の下で、すべて平等なはずです。
ところが長い歴史の中で、人間が勝手に占拠して、「ここは俺の地所だ、これは俺の国だ」といって勝手に決めたのです。
このことは、私たちがあの世に行ってみることで、地上の価値観とあの世の価値観の違いがよくわかることになるでしょう。
あの世では国境もなく、人種差別もなく、魂のステージの違いによって居住する段階が違うだけであるということを。
しかし、日本人の先祖は良くも悪くも同じ場所にいる人が多いようです。
その理由は、人間の正しい価値観、人生の目的と使命をわからずしてカルト宗教や、拝めば救われる式の他力本願の信仰のままで亡くなった人の場合、実際は死んだら極楽浄土に行くどころじゃなく、あまりよろしくない世界へストレートで落ちてゆきます。
本来、日本人の魂のステージは世界的な観点からしても高く、偉大な魂の集団だと感得しております。
それだけに、多宗教の日本ではありますが、正直申し上げて間違った信仰でマインドコントロールされている信仰者の場合は霊的な視点からすれば非常に危惧するところであります。
ですから、今現在肉体を持って地上生活をしている人たちは、自らの心を調和し、その上でこの日本を浄化しなければならないのだと思います。
浄化するとは、自分たちが模範となる生き方をして、その姿をあの世の人たちに見ていただき気付きのきっかけにすることです。
お経を読経することや僧侶にお願いしてご法事したり、霊能者にお願いして供養することではありません。
日本人は、偉大な魂の集団であるからこそ、戦後、僅か30年余りで世界のトップクラスまで成長したのです。
しかし、一方において偉大なる心の価値観を忘れてしまいました。
それが、現代社会における精神面や教育現場、子どもたちの精神疾患、事件、行政の失態、ブラック企業、等々あらゆる歪みを作り出している元凶ではないだろうか。
偉大なる魂なるがゆえに、善に向けば善にも強いが、悪に向かえば、また悪の方向にも大きく発展していくものです。
使命というと何かしら特別な事と思いがちですが、そうではありません。
気づいたらそれを行うこと。
たったこれだけのことで前に進めるのです。
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