憑依は何故おこるのか
譫妄(せんもう)
前立腺結石によって痛みがひどく、手術をすることになった84歳の男性Sさんが入院して順調に手術を終えた。
しかし、麻酔から覚めて数時間するとソワソワ、座ったり、横になったり落ち着きなく、変な事を言い出し、言動がおかしいと病院から家族に電話がはいった。
『手術を終えたあとに様子がおかしくなる患者さんが時々おられます。しばらく様子をみますが、どうしても手に負えない時は深夜でもお電話してよろしいでしょうか。その時は病院まできていただいて看てやっていただきたいです。』という看護師長さんからの電話で医学的には譫妄(せんもう)ということだった。
息子さんが会社の帰宅途中とのことで急きょそのまま病院へ向かうことになった。
この話しの経緯を連絡受けた私は直感した。憑依ではないかと。
以前、連れあいお婆さんを整体のために車で乗せてきていて、顔を知っている方なので、すぐにこの患者さんのSさん84歳を遠隔で浄化することにした。
浄化すること数分、私の皮膚全身に悪感が走って鳥肌が立ち邪気が伝わってくるが、間もなく落ち着いた。
病院についた息子さんから家族へ連絡が入った。『親父は普通にしていたよ。』と。
その夜は休む前にもう一度Sさん84歳と病院全体も浄化してから休んだ。
翌日の朝にお爺さんの様子が落ち着いていると連絡をいただいた。
病院は身体を病んでいる人が行くところであり、入院するところでもありますが、総合病院の場合は息を引き取る方も相当におられることになります。そして霊安室もあります。
外来の患者さんや入院患者さんたちは身体だけではなく、病をすることによって精神も落ち込み不安定になり、なかには心疾患にまで陥っている場合も少なくないでしょう。
日頃、心の状態が非常に不調和な人の場合は病気をすることによって更に心が不安定になりやすく、そこに体力の低下が重なると非常に霊的な波動の悪影響を受けやすいものであるということ。
そのような意味で、このSさん84歳は一時的な憑依をされたのであった。
その理由はご本人の心の不調和に原因がある。元々このSさん84歳は、不満と、怒りと、傲慢さを顕わにする心の傾向性(癖)があった。
心の隙間、そこに未浄化な霊たちの波長が合い憑依を受けたのである。
ここで霊的な視点だけではなく、譫妄(せんもう)について医学的な説明も加えておきます。
譫妄とは、軽度の意識混濁を背景に活発な錯覚や幻覚などの症状を示す最も代表的な意識変容の形のこと。
外界は夢のように変容し、周囲の人や物は鬼や怪物などに錯覚され、さらに恐怖の場面の情景的な幻覚が次々に不連続的に現れる。
患者は幻想的な世界に巻き込まれているため、幻覚や錯覚に左右され、ときにはその人の職業にかかわるしぐさをすることがあり、これを作業譫妄(職業譫妄)という。
うじ虫のような小動物がうごめきながら体にいっぱいたかってくるような幻覚が起こったり、蛇や奇獣の幻覚をみるばあいもある。
いずれにしてもあまりいい情景が症状として出ることは少ないのだが、当然と言えば当然かもしれない。
これは患者自身の心が日頃いかに不調和であったということの証左でもある。
さて、憑依についてもう少し触れて説明してみましょう。
人間の(意識)が動物霊や地獄霊に憑依されると、ひとりよがり、無口、多弁、嘘つき、深酒、怒りっぱい、愚癩っぱい、自閉的性格などの現象が顕著になってくる場合があります。
憑依がさらに進行すると、精神分裂状態にもなりますし、通常の社会生活ができないような状態にまで陥ってしまう場合がある。
こうなると自分の心(意識)が他界者に完全に占領され、就眠することができなくなってしまいます。
ノイローゼ状態の場合は憑依によるものがあることも否定できない事実であります。
なぜこのような憑依現象というものが起こるのかと言うと、その本人の物の見方、考え方が非常に片寄っており、欲望や執着、拘りが強いがために、心のバランスを崩してしまっているために起こるのです。
同じような心を持っている動物霊や非常にエゴに満ちた人霊が、「類は友を呼ぶ」ということわざのように寄ってくるというわけです。
つまり、波長共鳴の原理によってつながるということです。
現代では、「動物霊、地獄霊に憑依されて」という言葉を使いますが、以前は「たたる」とか「とりつかれて」という言葉を使われていました。
このような言葉は、いかにもこちらの方は何も悪いことはしていないのに、一方的に向こうの方から悪いことを仕掛けてくるという意昧にとれますが、決してそうではなく、今までの説明のように、こちらに原因があったということです。
例えば、生前の思念と行為ゆえに、ある人が地獄の世界に堕ちたとします。
その人は文字通り苦界にあえぎます。すると苦しさ、厳しさのあまりに助けを求めます。これは全くこの世に生きる人間の様子と同じです。
ものを頼む場合、聞いてくれそうな人に頼むでしょう。
「類は類をもって集まる」というたとえの通りに、これが「憑依」というものなのです。
憑依と邪気(マイナスエネルギー)を被ることとは異なります。
邪気を被ることは、未成仏な霊や、人ごみの中や、特定のスポット、あるいは特定の個人がそばにいることによって、その不調和な霊気に触れて一時的に身体の不調を感じることを意味します。これは自己浄化の方法さえ覚えれば解決することであります。
一方、憑依は四六時中続いているかというと、通常は憑いたり離れたりします。
心が片寄った想念に支配されると憑依し、そうでない時は離れます。
飲酒すると人が変わって酒癖が悪くなったりするが、ふだんは真面目人間という人がよくいます。これも憑依によるところが大です。アルコールによって表面意識が潜在し、逆に潜在意識が表面化することで憑依を受けやすくなるのである。
もちろんご本人の日頃の心に不調和な部分が潜在しているから起こることである。
しかし、憑依の時間が長くなるにしたがって、そして長期化することによってその性格が変わってゆき、心身ともに病気がちになってきます。
精神的な疾患は、その憑依時間が長時間、長期間になるほどに深刻な状態になっていく。
欲望が強く偏ってしまうと動物霊が、感情が激しく動くと自縛霊や地縛霊が、知識や知能におぼれ増長慢になるとまた動物霊、地獄霊が、意志が強すぎ頑固になってくると自縛霊、地獄霊が憑くようになってくる。
しかし、これらはひとつの傾向性であって、内容によって憑依も多様化してきます。
憑依から己の意識を守るには正道に適った想念と行為が必要です。
一時的に憑依を取り除いても肉体を持っている本人が心改める想念と言動をしていかない限りは決して憑依はなくなることがない。
何度も申し上げるように、憑依は、向こうが勝手に寄ってくるのではなく、自分が呼び込み、自分がつくり出しているのです。
つまリアンバランスな精神状態がつくっているのです。
ですから、明るく調和された心を持つ人は、たとえどのような地獄霊、動物霊がいても恐れることはないのです。
いかなる悪霊といえども心の調和された人の心に憑くことはできないのだということを知ることです。
バランスを崩し、片寄った思いがあるから彼らは集まるのです。霊と地上人間は常に紙一重の関係にあり、裏と表があって一枚だということを理解していただきたいものです。
もし、自分か憑依されていることがわかっても、決して恐れてはいけません。
自分でもおかしいと思ったならば、自分の心を常に平静に保つように、『八つの正しい生活規範』に適った生活を送るように心がけることです。
そうすると向こうの波動と合わなくなってきますから、憑依現象も自然と解消されてきます。
また、執着に固まった心をほぐすには、肉体的な程よい運動も効果があります。
なぜなら、「心身一如、色心不二」と言われるように、心と肉体は切っても切り離せない関係ですから、肉体が正常な働きをすると、心も自ら正常になっていくからです。
ところが、少しおかしいと言っては、お払いや祈祷をしてもらって解決しようとする人がいますが、自分からつくり出してしまった原因は、だれもそれを取り払うことはできないのです。
たとえ一時的に除霊しても根本的な解決にはならないことを申し上げておきます。
自ら蒔いた種は自ら刈り取らなければならない。
これは心の法則であり、摂理です。
憑依されている人を救うには
問題点その第一、これまで、祈祷師や霊能者によって除霊とか浄霊ということが行われてきましたし、現在でも行われております。
そのような方法で除霊してもらうと、当初はよい結果が出たように見える場合がありますが、そのうちに、以前よりもっと悪くなったという結果も間々あります。
このような事例は相談者のなかにもありました。
なぜかと言いますと、祈祷師や霊能者による除霊の問題点は、まず第一に、神理や心の法則、憑依の問題をどれあけ正しく理解しているかという点にあります。
心の法則を知らないために、その人の心と生き方を正しく導くことができず、または後回しになりがちであり、偏った心の修正ができないことは、相談者の霊的な能力に対して依存心だけが増幅してしまい、結果的に他力本願になり、問題を深刻化させてしまいます。
そして第二点は、憑依の根本的な原因を取り去らないために本人の心と行いが変わっていないので、しばらくしたらまた別の憑依霊が憑いてしまうことの問題です。
これは痛みを止めるために鎮痛剤を使用するものの一時的に痛みは止まりますが、鎮痛剤が切れると、また痛みが始まるのに似ています。
そういった痛みを訴えてくる患者さんは実に多いのですが、鎮痛剤の服用を極力最小限度に減薬してもらって施術をしていくと回復の速度が随分と違って早まります。
鎮痛剤の功罪といいましょうか、効用とリスクはハッキリしています。
痛みを抑える、殺すことは痛みから一時解放されるという点においては効果的であり有効な部分であります。
しかし、痛みが抑えられたことによって根本的な痛みの原因を追究することもなく、また原因を悪化させることにもなっていきます。このことは24年間の施術の経験と結果からいえる実例をいっているものです。
現代では、鎮痛剤の効用やリスクについては医学的にも説明されております。
話しを本題に戻しましょう。
第三点は、地獄の世界は弱肉強食の世界で、強い者が弱い者を制するがごとく、どうしたらいいものかと、あっちこっちと迷える人々の弱い憑依霊を祈祷師や霊能者に憑依している強い憑依霊が追い払うために、一時憑依が取れたように見えますが、今度は、祈祷師や霊能者の憑依霊の子分や配下がその人に憑くために、もっとひどくなるということになるケースがあります。
この三つの問題点をよく考えてほしいものです。
そして、また何でもすべて憑依霊のせいにして、具合が悪いと「何か憑いているんじやないでしょうか」という考え方も偏った考えで賛成できません。
そんなに簡単に憑依するものでもなく、逆に心を明るくしようと努力している人には絶対に憑依しないものです。
憑依されている人は、その期間が長ければ長いほど、その人の心も暗く固定化してしまっているために、心を変えなければならないといくら言っても憑依霊がしっかりその人を支配し、念波を吹き込んでいるのでこちらの重要な話しを聞き入れようとしません。
こういう人は、頭が重いとか、自分に話しかけてくるから会話をしているといって一人でブツブツと語っています。
このために、憑依されている人は、自分の頭が自分のものであるようなないような、考えることが自分の考えであるのかないのかわからないような気がいつもすることになります。
そのような場合に、憑依霊を取り払えば、頭が軽くすっきりとさわやかになり、本当の自分にかえることができます。
そのような状態の中で、正しい心の持ち方をその人に何度も繰り返し教えるのです。
これ以外に根本的な解決方法はありません。
もちろん、一度教えたからといって人間の心が急に心が変わるわけではなく、永い間の習慣が働いて暗い心になると、またその心を縁として霊が憑依してくるので、憑依霊によく摂理を教えると同時に、また憑依されたその人にも真理を教えるということを繰り返さなくてなりません。
幸福になるために必要な信念
潜在意識の活用
今まで長い間、あなたが不幸続きだったとします。
すると必ず「幸福になりたい」と思われるでしょう。
たとえ現状は不幸続きでも、そのためにすでに自分か幸福になっている状態を心の中にありありと描いて、「自分はすでに幸福である」と思うことです。
常にそう思いながら「これから、あらゆることにおいて一層よくなる」と思うこと。
その上でこれからどうすればいいかを考え、自分にわからないことがあれば、専門家や経験者の指導を受け、智慧を出して努力することが大事です。
現世利益を願って、念仏を唱えたり、神頼みをしたり、他力信仰、他力本願に走っては絶対にならないことです。
しかし、ただ考えるだけで、何もしなくては実現しません。
心をそのようにして切り替えてゆくことがとても重要です。
困ったときの神頼みとばかりいろいろな神社仏閣に出向き祈願をする姿。
いろいろな宗教や団体に入会し、お題目を唱える日々の生活。
しかし、人は何かことあるごとに固有の神々の名を呼び、天使を呼ぶことが多いが、あの世での天使には天使のやるべきことがあります。
私たち地上の人間にはすべて内なるものとして備わっているのですから、すべては自力で如何様にもなることを理解しなければならないでしょう。
次回は6月12日(木曜日)『禍転じて福となす』を投稿予定しております。
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