他人の言葉を聞く姿勢

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信じて耳を傾ける
軽度のうつとパニックを抱えた50代のご婦人が治療においでになり、女性スタッフが担当することになって、いろいろと話を聞きながら施術をおこなっていました。
「不安なんです」、「いつも不安が消えないんです」
「何が不安なんですか?」
「娘が明日車を運転して帰ってくるから雨だったらどうしようかと思って」
「雨が降ってもゆっくりくれば大丈夫ですよ」
「ん~(;一_一)ここに来る途中もいろいろと考えてしまって」
「今も何か考えていませんか?」
「はい。骨格調整が痛くないかと思って」(実は初めての施術ではない)
こういった会話の他にも、自分の体の一つ一つの症状や変化にも、とても細やかに心を向け過ぎて、自分で不安感を増幅させているところがみえる。
こういった傾向は体だけではなく、すべての出来事が不安材料であり、悩みの種になっているという。
その不安な出来事に対して「そのような時はこのように受け止めたらいいよ。それはこういうことじゃないの?」と問いかけても、帰ってくる言葉は「ん~(;一_一)」という返事だけで言葉が返ってこない。
自分の世界にどっぷりと浸かって他人の言葉が心にとどいていないのです。
こういう心の癖を修正するには、本人が自覚を以って学ぶ姿勢にならないと修正は限りなく不可能に近い。
拘りが強く、頑なに自分の世界からしかものごとを見ることができず、およそ客観的に第三者の立場で自分自身を観ることができない場合にこういった心の傾向性ができあがってきやすい。
ちょっと話題を変えてみましょう。
「この世知辛(せちがら)い世の中、他人の話は疑ってかからなければとんでもない目に遭う」そう公言する人がいます。
他人の話を鵜呑みにして、ひどい目に遭った経験が重なり、そんな人生訓を囗にさせるのかもしれません。
寂しいことです。
わたしは、他人の話や自分で感じたことは、まず、素直に聞き、あるがままに聞くことが大切だ、と考えています。
「如是我聞・にょぜがもん」という言葉がそれを教えてくれています。
それに関して次のような逸話が伝わっています。
お釈迦さまの高弟のひとりであった阿難尊者は、いつもお釈迦さまのそばにあって、数々の法話を耳にしていました。
衆生にその教えを伝える際、阿難尊者が最初に聞いたのが如是我聞という言葉だった、とされています。
そのままの意味は、「わたしは(お釈迦さまから)このように聞きました」ということだと解していますが、そこにはお釈迦さまの教えに対する、阿難尊者の揺るぎない確信が含まれています。
「わたしはこのように聞きました。この真理は絶対のものです。ですから、疑いを抱いたり、不安を持ったりせずに、信じて素直に耳を傾けなさい」というこれが、如是我聞という言葉が意味するところだろうと思います。
疑いの心があっては、真実は理解できないし、ましてや、真理に到達することなどできはしない、ということでしょうか。
自分の我が強くあったり、何かしら心に思いをもっていると他人の言葉が耳には届いていても、心には届かないものです。
素直に聞くと学びが始まる
素直に聞くという姿勢も、現在では失われつつあるものかもしれません。
他人が真剣に話しているときも、上の空でいたり、最初から「話し半分」と疑ってかかったりする。
思いあたるフシがあるという人もあろうかと思います。
そこに見え隠れするのは心の内に潜む傲慢さです。
自分を一段高いところにおいて相手を見下したり、否定的にとらえたりしたのでは、素直に聞こうとする姿勢は生まれてきません。
しかし、知識を超えた真理や、理屈では推しはかれない真実というものは、いくらでもあります。
相手の話のなかに、それらが散りばめられているかもしれません。
また相手の会話のなかにも何気に道理を得た内容がふくまれていることがあり、とても勉強になります。
傲慢さは、せっかくそれらにふれていながら、やり過ごしてしまう、という愚をもたらすだけです。
まして、相手の話を遮って自分が言いたいことだけをまくし立てる、といったことをすれば、まわりから一人去り、二人去り、ついには孤立することになってしまいかねません。
人の話しを聞いていながら心では別な事を考えていて、こちらが何かを問いかけると「ん~(?_?)」と返事が返ってこない。
仏教で「聞く」姿勢をとくに重んじるのは、素直に聞き、素直に感じるところから、学びが始まる、と考えるからなのでしょう。
経典はお釈迦さまが入滅されてから、四百年から五百年経って編纂されたものかと思います。
それまで教えは口伝、つまり、囗から囗へと語り継がれるものだったようです。
お釈迦さまが語られる珠玉の言葉を、弟子たちは澄み切った心の素直さで聞き、血肉としていきました。
その姿勢があったからこそ、真理は仏典としてまとめられ、こんにちまで伝えられている、といっていいと思うのです。
過去の歴史でも、現代における先駆者たちも、さまざまな世界で確固たる地位を築き、偽善の宗教家以上にすばらしい社会活躍している人たちがたくさんいます。
その成功の因は、すぐれた統率力であったり、不断の努力であったり、不屈の精神力であったり、人々から人間として尊敬されていることがあるからなのでしょう。
しかし、そういう地位にある人たちが共通していることとなると、それは素直に純粋に他人の話を聞く心を持っている、ということです。
まず、しっかり耳を傾け、助言としてみずからのなかに活かす。
それも成功の大きな要因、おそらくは最大の要因ではないか、とわたしは思っています。
しかし、素直に聞くことと、盲信、狂信することは全く意味がことなるものです。
何故なら、盲信すること、狂信することは、明らかに全体像を観ることができておらず、且つ、事の善悪を見極めるという客観的な視点を見失っています。
その集団のリーダーに偽りや傲慢さ、驕りがあっても、その集団の業に引きずられ、自分の不安や見栄などもあり、批判などを恐れて去ることができないでいるケースもあります。
悪しきを為す者は
いまにくるしみ
のちにくるしみ
ふたつながらにくるしむ
「悪しきをわれ為せり」と
かく思いてくるしむ
かくて
なやましきみちを歩めば
いよいよ心苦しむなり(法句経より引用)
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