愛は光り


会話の中でいつも寂しさを含んだ言葉と、不満と、愚痴と批判を投げかける人たちがいる。
このような人は唯物的思考の人が多く、現実的で目先のことに一喜一憂し、感情に流される傾向にある。
私たちは決して孤軍奮闘しているのではないこと、まわりには私たちを愛する人々、手引きをし、援助し鼓舞せんとする専属の霊がいることを理解していただきたい。
そしてまた、心の開発、すなわち霊的開発が進めば進むほど、宇宙の意識へ向けて一歩一歩近づきつつあり、より一層、その摂理と調和していきつつあることを理解していただきたいのです。
単なる信仰、つまり、これまでの神社、仏閣、仏壇、神棚の前で合掌礼拝、読経、祝詞を奉唱するだけの古い因習だけでは、厳しい人生体験の嵐が吹けばあっけなく崩れてしまいます。
信仰を持つことは悪いことではないが、信仰に執着して生活に支障をきたしたり、人間関係を気まずいものにしたり、信仰のために生活を犠牲にすることは、自分にも他人にも心に罪を残すのである。
信仰によって心のバランスを見失っているいる人たちの相談が後を絶たないのです。
が、宇宙の法則と人間の関わりを悟った生き方はいかなる環境にあってもゆるぎない心の基盤を提供してくれます。
霊の力の証を授からなくても信じられる人は幸いです。
が、証を授かり、それ一つを手がかりとして他の多くの真理を信じることのできる人は、それ以上に幸いです。
なぜならばその人は宇宙の摂理が愛と叡智(えいち)そのものであるところの霊の力によって支配されていることを悟っているからです。
人生とは生命そのものの活動であり、霊的であるが故に死後も永遠に続くことは立証可能な事実です。
かくして人間は地上にあっても霊的存在であり物質的存在ではないこと、すなわち身体を具えた霊(魂)であって、霊(魂)を具えた身体ではないということを自覚することができます。
この主従関係の順序を間違えると全く意味が異なってしまう。霊(魂)が主であり、身体が従なのである。
物質界(地上)への誕生は、測り知れない価値ある霊的学習の一部を受けることです。
霊(魂)であるからこそ物質と結合し、活動と生命を享受(享受)することができるのです。
その霊(魂)は宇宙の意識の一部であり、本質的には神性を具え、性質的には同種のものであり、ただ程度において異なるのみです。
我欲を棄て他人のために自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就しはじめることになります。
家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません。
家族愛が優先されることは勿論ですが、外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです。
排他性の内向的愛よりも、発展性の外向的愛の方が上です。
例えていうなら、いかなる資質にも上等のものと下等のもの、明るい面と暗い面があるものです。
家族的な愛は往々にして排他性を帯びます。いわゆる血のつながりによる結びつきです。
それは進化の過程における人間動物的段階の名残りである防衛本能によって支配されていることがよくあります。
が、愛の最高の表現は己を思わず、報酬を求めず、温かさすら伴わずに、全てのものを愛することができることです。
その段階に至った時は絶対唯一の存在意識の働きと同じです。
なぜなら自我を完全に滅却(めっきゃく)しているからです。
愛は人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。
愛は慈悲(じひ)、同情、親切、優しさとなって表現されます。
愛はまた、滅私(めっし)と犠牲の行為となって現われます。
4次元世界である霊(あの世)の世界に還った者がなぜ地上へ舞い戻って来るかご存知ですか。
大多数の人間にとって死は有難いことであり、自由になることであり、呪縛からの解放であるのに、なぜ戻って来るのでしょうか。
あの世の霊の世界の恩寵に存分に浸っておればよいはずです。
死は、地上の人間を脅(おびや)かす老いと病と数々の煩悩(ぼんのう)に別れを告げたのです。
なのに、地上との間に横たわる計り知れない困難を克服してまで自ら志願して地上に下生して来るのは、地上人類への愛があるからです。
私たちは愛の赴くところへ赴くのです。
愛のあるところに存在するのです。
愛あればこそ役に立ちたいと思うのです。
それが己自身の、即ち霊(魂)のステージアップになるからである。
人間は何の為に生まれ生きるのかとなれば、心(魂)の向上、ステージアップの一言である。
地上において如何なる敵対行為が人々に向けられても、妨げんとする邪教集団の勢力がいかに強力であろうと、それが最後には効を奏することができないのは、そうした愛に燃えた人々の働きがあればこそです。
あなたも、これまでに得させて頂いたものを喜ぶべきです。
浴し得た恩寵(おんちょう)に感謝すべきです。
愛は死よりも強いこと。
立ちはだかる障害も愛によってきっと克服されるという認識を得たことを有難く思うべきです。
あなたを包む唯一の意識、背後の霊たち、人々の愛によって存分に慰められ、支えられ、励まされるがよろしい。
その愛の素晴らしさ、豊かさはとても表現し尽くせるものではない。
時には、何とか伝えてみようと努力することもあるのですが、あなたの心臓の鼓動よりもなお身近にあるその愛の深さはとうてい人間の言葉では表現出来ません。
愛は一人ひとりの心の内に内在し、いつでも光り輝き、まわりを照らすことができるものです。
人間はこれまで、愛に発する利他的行為、英雄的行為、奉仕的行為、滅私的行為による目覚しい成果を見て参りましたが、霊界の高級霊が生命力そのものを結集して私たちをを温かく包む、その愛の底知れぬ潜在力はとうてい推(お)し測ることはできません。
もっとも、それも受け入れる器がなければ授かりません。
それが摂理なのである。
理屈は分かってみれば簡単です。
資質と資格ある者が授かるというだけのことです。
愛の霊力は無尽蔵(むじんぞう)です。
それに制限を加えるのは人間の受容能力すなわち調和された心であり自我心がないことです。
地上人間が少しでもその受容能力を増せば、その分だけを授かるのですが、今の自分以上のものは絶対に授かることはない。
常に太陽に心を向けて歩んでいただきたい。
下ばかりを向いてはいけません。
太陽の光は上から差します。
下からは照らしません。
太陽は永遠の輝きの象徴です。
霊的太陽は啓蒙(けいもう)と活力の源泉です。
内在する霊(魂)に刺激を与えます。
自分が本質において永遠なる存在であり何ごとも修行であることを忘れぬかぎり、何が起きようと意気消沈することはありません。
霊性は書物からは得られません。
霊性という光りは先生が授けるものではありません。
自分自身の愛ある生活の中で実際の行為によって体得しなければなりません。
行即光(ぎょうそくひかり)これがです。
それは個性の内部における神性の発芽現象なのです。
あなたのなかにある神性こそ、その無限の愛の抱擁力によって私たちを支えている力であり、その尊い生命力を発揮し宿命を成就するよう導いてくれる力です。
神性は宇宙における最大の力であり、マクロ、ミクロの別なく全ての現象を根本から操っております。
あなたの魂のさまざまな必要性を察知し、いかにしてそれを身につけるかを知らしめんと取り計らってくれます。
自分とはいったい何なのか、いかなる存在なのか、いかなる可能性をもつかを徐々に悟らせる方向へと導いてくれます。
ですから、私たちは愛をもって導いてくれるこの力に安心して身を任せてよいのです。
その愛の導きに身を委ね、いついかなる時も唯一なるものの神の中にあることを自覚しましょう。
完全なる愛は恐怖心を駆逐します。
片寄りのない正しい知識や客観的価値判断も恐怖心を駆逐します。
恐怖心は無知と肉体的五官への執着から生まれるものだからです。
愛と信頼と知識、知恵のあるところに恐怖心は入り込めません。
進歩した霊はいついかなる時も恐れることがありません。
なんとなれば、自分に神性が宿っている以上、人生のいかなる局面に遭っても克服できぬものはないとの信念があるからです。
これまであなたを包んできた愛が今になって見放すわけがありません。
それは唯一なる宇宙の大意識から放たれる無限なる愛であり、無数の回路を通して光輝を放ちつつ地上に至り、やがては、人のために役立たんと志す人々の力となります。
気力喪失の時には力を与え、悲しみの淵にある時は慰めを与えてくれます。
宇宙に遍満する愛の光りは、あなたのまわりに張りめぐらされた防御帯であり、決して破られることはないだろう。
言葉にて証を示すなら、愛が不滅であること、死は愛し合う者の仲を裂くことはできないこと、物的束縛から脱した霊は二度と死に囚(とら)われることがないということです。
しかし、愛の真の意義を悟るのは霊的なあの世に行ってからであろう。
なぜなら愛の本質は霊的なものだからです。
愛は魂と魂、精神と精神とを結びつけるものです。
宇宙の大意識の顕現なのです。
互いが互いのために尽くす上で必要ないかなる犠牲をも払わんとする欲求です。
愛と慈悲は邪(よこしま)なるもの、害なるものを知りません。
死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。
いわば第二の誕生です。
死こそ真の生へのカギを握る現象であり、肉体の自縛に閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わうことを可能にしてくれだろう。
愛によって結ばれた絆(きずな)が死によって引き裂かれることは決してない。
愛と慈悲は唯一なるものの摂理の顕現であり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩、愚かさ、無知、依怙地(えこじ)、偏見等々を乗り越えて働きます。
また、二人の人間の愛の真の姿は魂と魂の結びつきです。
宇宙の大意識はその無限の叡智をもって、男性と女性とが互いに足らざるもの補い合う宿命を定めました。
両者が完全に融合し合うことにこそ真の愛の働きがあり、互いに補足し合って一体となります。
愛は無限なる霊(魂)の表現ですから、低い次元のものから高い次元のものまで、様々の形をとります。
すなわち磁気的で身体的な結びつきから精神的な結びつき、さらには根源的な霊的な結びつきへと進みます。
その魂と魂との結びつきが地上で実現することは極めてまれなことであり、むしろ例外的なことに属します。
が、もし実現すれば両者はその宿命を自覚し、一体となるだろう。
これが魂と魂との真の結婚の形態です。
あの世においての霊(魂)は全てが同胞であり、兄弟ですが、それが再び僅(わず)か五十~八十年の短い期間に地上という小さな天体上で巡り合うということは極めて異例なことである。
その背景には、人智を超えた大きな計らいがあるということです。
あの世においては、人間的個性すなわち、地上的価値観を少しずつ脱ぎ捨て、霊的個性をますます発揮していき、高いステージでの魂の融合度合を深めていくことになります。
愛は血縁に勝ります。
愛は死を乗り越えます。
愛は永遠不易(えいえんふえき)のエネルギーです。
それが“宇宙を支配している”のです。
愛は全てのものに勝ります。
なぜなら、それは宇宙の大意識の一表現だからである。
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