死者の供養
一、どこの告別式に出向いても、あるいは法事の際にでも、死後の人が好きだからとして、生前の好きな物をいろいろ供養のために供えますが、こうしたことは正しいものなのか。
二、昔から不幸やお祝いなどに縁起をかつぎますが、これは本当のところはどいうものだろうか。
三、忘れない夢と、思い出せない夢の違いはどういうことなのだろうか。
きょうは、この三点について述べてみましょう。
一、先ず、悟った霊、すなわち地上生活における肉体や習慣など、一切の執着から離れれた霊は、物を供えられようと、供えられまいと、そのようなことに心を動かすことはありません。
だいいち、四次元(実在界・あの世)と三次元(この世)とでは、もともと次元が異なり、あの世の霊は、三次元の供え物を食べることができないし、また、そうした行為がある、なしによって心が動くようでは天上界に行くこともできません。
ただ、あちらに帰った魂といえども人の子です。
地上界の人々の心が自分に向けられ、生前好きだった物を出され「食べてください」といわれれば、その気持を汲まれ感謝することでしょう。
一方、地獄に堕ちた霊は、供え物を食べたくとも食べられません。
自分のことだけで精いっぱいで手助けしようとしても聞く耳を持たぬ人はいるものです。
これは自我執着の念が強く自分を客観的に観る理性が働いていないために起こる現象です。
死者の心が、現象界(地上生活)への執着も強く、このため、葬儀の帰りに事故が起こったり、法事の後で兄弟ゲンカが始まるなど、いろいろと問題を起こることがあります。
これらは、遺族や弔問客の不調和な心にも原因はありますが、死者の霊が近親者に働きかけるために、人々の心が影響されて不調和になり起こる現象でもあります。
それだけに遺族の人たちや、弔問に訪れる場合は心を調えることを特に意識しなければならないでしょう。
死者に対する供養は、あとに遺された人たちが中道という調和された生活を送ることなのです。そうすると、こうした作用は生じません。
供え物をあげる、あげないは二の次、三の次です。
二、不幸に対してはお祓いを、お祝いにはあやかりたいと、縁起をかつぐ風習がどこにもありますが、これらは古い習慣に支配された無知な心が、そうさせるといえるでしょう。
悪いことに、人は恐怖心を抱きます。その恐怖心が不幸を招くのです。
つまり、悪いことが二度、三度重なる、あるいは良いことは重なって欲しいとしてそれを求めるその心の不安と恐怖心が、そうした現象となって現われるのです。
現象、結果というものは心如何によっていかようにもなるのである。
縁の起こりは、すべて心がつくり出し、それは通常、想念という思い、念ずる作用から起こってくるものです。
この意味で想念は、ものをつくり出すということを、あらためて知ってほしいものです。
三、夢については、すでにのべましたが、夢にはいろいろあって、守護霊が意識的にみせ る場合と、本人白身があの世を見てくる場合、本人の心の映像が具象化される場合など、さまざまです。
忘れがたい夢は守護霊が見せてくれる夢と理解してよいでしょう。
天国に行って、美しい花を見たり、きれいな人たちと楽しくすごしてきたり、すばらしい風景をみたりします。
忘れる夢は、たいてい自分があの世に行って見てくるため、目がさめると、見て来た情景が思い出せないことが多いのです。
心の映像の具象化の場合には、テレビや芝居など恐いものを見たときに、それが夢となって現われる。
このほか地獄霊や動物霊が本人に憑依し、悪夢をみせる場合があります。
夢は、自分の心、想念のあり方によって変ってくるものです。
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