商業仏教

 今月6日の読売新聞に載った記事を一部紹介してみます。

葬儀で僧侶に渡す「お布施」を巡り、東京国税局などの一斉調査で判明した僧侶派遣会社や葬儀会社約10社による計約5億円の所得隠し。

複数各地の派遣会社に登録して働く僧侶たちは、「5割以上をピンハネされた」などと、お布施を業者に還流させる仕組みの詳細を明かす。

なかには「他宗派の僧侶を装って法事をさせられた」などの証言もあり、僧侶派遣ビジネスの不透明な実態が浮かび上がった。

「実家の寺の副住職としての収入だけでは食べていけない」。埼玉県内の僧侶(46歳)は約10年前、複数の派遣業者に登録して最近まで仕事を続けていた。

派遣業者に支払う仲介手数料は「お布施の半額」が基本だったが、時には、お布施35万円のうち、25万円のキックバックを求められたこともあった。

交通費や宿泊費、食費などは基本的に自腹。「5割以上のピンハネはつらかった」と振り返る。節約のため、格安のビジネスホテルかカプセルホテルを選び、食事はコンビニで済ませた。

派遣業者への支払いは振り込みが多かったが、現金書留を指定されることもあった。「裏金にするのだろう」と感じた。

こうして僧侶から派遣業者にバックされたお布施の一部は、多くの場合、派遣業者に僧侶派遣を依頼した葬儀会社に対して紹介手数料やリベートとして流れる。

お布施は数万~数十万円で、葬儀会社の取り分は3割程度。所得隠しが指摘された僧侶派遣会社「グランド・レリジオン」(埼玉県川口市)は、僧侶から受け取った紹介料の一部を収入から除外し、葬儀会社への手数料やリベートに充当。

葬儀会社もリベートを簿外で受け取るなどしていた。要するに裏金として表に出さない金となる。

ある葬儀会社幹部は、リベートの一部の使途について「患者が亡くなった時に紹介してもらえるよう、病院関係者らを接待するのに使った」と明かした。

こうした仕組みが施主側(遺族)に伝えられることはまれだ。グランド社から葬儀に派遣された僧侶の一人は「施主は読経の対価としてお布施を払っている。施主に実態は知られたくない」と語る。
僧侶の宗派をごまかして派遣するケースもある。

ある派遣会社から法事の仕事を受けていた関東地方の僧侶の場合、いつも知らない寺院の僧侶を名乗るよう求められていた。宗派も異なり、法事会場で「~~寺の副住職さんです」などと施主(遺族)に紹介されるのが後ろめたかったという。

他宗派の四十九日の法要で、重要な「位牌入魂」までやらされ、その宗派の作法が分からず、自分の宗派のやり方でごまかしたこともある。「とんでもないとをしてしまった」と、良心の呵責に耐えかねた。

ここまでが読売新聞の掲載記事です。

13年前、田舎のことですから、私の親父とお袋のときの葬儀は家で行いましたが、近年は斎事場にて葬儀会社が式次第を執り行うケースが多くなり、派遣会社や葬儀会社が会場に僧侶の手配をし、お布施からも利益を得ている時代です。

僧侶が頂いたお布施をキックバックするよう派遣会社が請求をするわけですが、その内容は上記の記事の通り。

派遣会社では僧侶へのお布施から葬儀社へのバックマージンを支払ったり、葬儀社は病院関係者への接待に使い葬儀の情報を頂くという構図です。

施主(遺族)は僧侶にお布施を支払っていても、これらの派遣会社や葬儀社などにもマージンとしてお金が流れていることになるわけで、お布施が高額になっていく一つの理由でもあるでしょう。

私はこれまでHeartschoolで何度となく述べてきましたが、仏教に限らず現代の宗教界そのものが商業ベースになってしまって、本当に心の救いを求める人にとっては甚だ用を成しえない内容に様変わりしてしまいました。

しかし、人々は形骸化した現代仏教界やその他の宗教界の堕落に気づいているいるのだろうか。一般的には知られていないし、金に群がる欲望は宗教に携わる人間も何ら変わらないし、むしろそれ以上で腐敗しきっているところが多々ある。

私はこれまで様々な形で宗教界をリサーチしてきたが、こんな腐敗状況のなかでも無欲で人々に手を差しのべている人もいることは一縷(いちる)の希望を見出せるて大変嬉しく思う。

現代の葬式仏教の中には2500有余年前のゴーダマシッダルタ釈迦無尼仏の説かれた、尊い人間の生き方である中道の精神は全くと言ってよいほど残っておりません。

従って、お金と宗教が非常に深くつながっている部分では、様々な腐敗の温床となってしまい、真の心の救いからは逸脱しているのです。あるのは形と儀式(パフォーマンス)だけです。

しかし、葬儀会社、僧侶、派遣会社の商業主義を助長する背景には施主(遺族)側の見栄も起因しています。

例えば戒名。僧侶が高額な戒名料で差別化をアピールしてくれば施主がそれに同調し見栄を張って院殿号をなる名称をつけて優越感に浸り喜々としている愚かな思いがあります。

形に拘(こだわ)ったりすればその分だけ全ての部分で費用がかさむのは致し方ないこと。

故人は戒名の高低料金で成仏するわけではありませんし、立派な祭壇や読経する時間の多い、少ないで成仏するわけではありません。

成仏するしないは、生前の生き方、その一点です。

最近は御墓を買うことで後々の管理の難しさが問題になり関心が薄れてきていますし、樹木葬という御墓のない樹木のある用地に御骨を埋めるシンプルな方法が評判になるなど、葬儀も多様化してきています。

ですが施主(遺族)の悲しみを、儲かるビジネスに変えていく新手の企業はまだまだこれから増える気がします。

私たち人間の裡(うち)には、お釈迦様が悟られた慈悲が、そしてイエスキリストが悟られた愛の心が内在されています。

ですが、私たちが一端、物や経済や地位や名誉などの形に囚われると、その内在された慈悲も愛も影を潜めてしまうのです。

物や経済は効率よく無駄のない使い方が最善の方法であり、物や金に翻弄され使われてしまっては人間として常軌を逸してしまうことになります。

金は人間を生かしもするが、堕落もする。しかし、金が問題なのではない、人間の心に問題がある。

 

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Posted by kansindo