水に学ぶ真理
個人個人の言い争い、口の立つ者は口下手な者を馬鹿にし、夫婦もまた互いに理解をもてずに不仲となり、親の子どもへの押し付け、子どもたちの先生への不信感、子どもたちのモラルの低下、兄弟の確執、同僚や上司の争い、社会のなかで人の集まるところどこでも自分が正しく、それでいて争いが絶えない。
正しいということは、大きな単位でいえば、その国々の指導者の考えでも違ってくるし、生活環境によってもその判断が異なってくるのではないか、または、個人の考え方や価値観によっても正しさの違いがあるというのが大方の人々の考え方であろう。
しかし、正しいということは、権力や人間の価値観や時代の違い、国のちがい、個人の智恵によって定められるものではなく、もっと大きな視点から捉えなければならない。
大自然の法則のなかに、それはすでに定められているのであって、人間が複雑に考え込んで、かえってむずかしくしてしまったといえる。
自分に都合のよいことが、正しいことだと思っている人もいるし、何ごとも、他人が幸せになることが、正しいことだと思っている者も多い。
しかし、善悪の見境なく、他人の面倒をみる、ということも正しいとはいいがたい。
善は善、悪は悪として、ケジメをはっきりと心得た行動でなくては、誤りを犯すことになるだろう。
自分の立場を考え、怒りや恨みの想念を心に秘めたまま、表面的にのみ相手に尽くし、つくろっている人は、重い荷物を背負って急な坂道を登るように、身も心も疲れ果ててしまうだろう。
本当に、相手を許す、そうした心になったとき、初めて心は晴れ、安らぎの生活が待っているのである。
なぜなら、自分の立場に固執することだけで、すでに自己保存になるからである。
相手に対する憎しみも、自己中心に考えたときにのみ生まれてくるもの、といえる。
心のない、形だけの尽くし方は、苦しみを生み出すだけのことでしかない。
善の行動をするものが心を苦しくさせるようなら、それは心の在り方に中道がないからであって、善とはいえないであろう。
善は、為すことも、内なる心も爽やかで中道になくては真の善とはならないのである。
水の三態にみる真理
正しさを考えてみると、自己保存も自我我欲も自己中心のため、相手というものを忘れている一方的な、偏った考え方だということがわかってくる。
このような考え方も、正しいとはいえないのだ。
正しい、とは、偏りのない、中道の考えと行為をいうのである。
他人をふくめての調和された生活が、万物の霊長である人類の、果たさなくてはならない使命でしょう。
では、偏りのない中道とは、一体どのようなものだろうか。
私達の肉体保存に欠くことのできない水はH2Oという分子式で表わされている。
水素も酸素も、きわめて不安定なものですが、大気中に、酸素や水素が多すぎたらどうなるだろうか。
酸素は、あらゆるものを酸化させ、燃焼させる。
水素も、アドバルーンや気球などに使用されたり、爆発力の強いものである。
このような、可燃性、爆発力の強いものでも、調和するとH2Oというもっとも安定した水になってしまう。
しかも、燃焼しているものを、消火させることもできるようになる。
水には、酸性分の強いものと、アルカリ性のものがあり、蒸溜水は中和された飲みやすい水である。
私達の肉体的条件に適応できるのは、もっとも中和され、両極端に片寄りのない水がよく、体質によって酸性分の強い場合は、アルカリ性の水や、梅づけのようなアルカリ性食品のものを飲食することで体質の調和がはかれるだろう。
私達の身体を見ると、水が約70%近くで、構成されているのであり、生物にとって、水はなくてはならない大切なものであります。
水は、母なる大地を、太陽の熱、光のエネルギーとともに適温に保たせるための役目をも持っている。
あるときは、結氷して銀世界を造り、またあるときは流動して、大地の清掃者となり、山水の美を造り大自然に調和されている。
またあるときは、忍者のように気体となって姿を隠し、空の彼方に居を構え、時折、獲物を狙うかのように大地に飛び込んでくる。
変化自在の力を持っている。
大地の奥深くもぐり込み、母体の血液のように水脈を造り、駆けめぐって、あるものは母体の熱に温められて地上に吹き出て、人々に温泉を提供している。
またあるときは、泉となって流れ出、美しい小川を造り、自ら多くの友と交わり、自らの進路を定めて行く。
友は友を呼び、類は類を呼ぶ法則に従って谷川を下り、町や村の近くを美しく流れ、塵やにまみれながら大河と変わり、やがて大海に入って大調和への道を造り出している。
それが水だ。
空中や大海に調和されるに従って、また綺麗な水に変わってしまう。
自ら道を求め、自ら調和のなかにとけ込んで、永遠の輪廻をくり返している。
それが水である。
人間が造り出した大気汚染によって、この綺麗な水が地上を汚染する事態を迎えている。
私達も、心を失えば同じことがいえるだろう。
調和のない行いは、架空の原則に流されやすいものだ。
自然の流れにさからうことなく、自らの力で進路を定め、大調和へと押し進んでいる水の姿を見たとき、人間の姿はどうだろうか、と考える。
人間は、水のように、勇気も智慧も努力もないのではないか。
なぜなら人間は、自らの欠点に甘く、他人の欠点だけには、目くじらを立てやすいからだ。
自らに打ち克つことこそ、大事なのではなかろうか。
自らの眼に映る不調和な諸現象を制し、自らの耳に入る雑音を制し、自分の都合ばかりを語る言葉を押さえ、嗅覚、味覚のおごりを制し、一切の執着を断ち、足ることを知ったならば、人生航路の荒波は柔らぎ、安らぎのある光明に満たされた大海のなかに調和されて行くことだろう。
そして、大海のなかに大調和される水も、個の水の本性は変わらないように、私達の個の生命の存在も変わらないということだ。
このように、水の流れまで私達に道を教えていることが理解されるだろう。
古代インドの頃、ゴーダマーブッタの説いた正しい心の教えを、ガンガーの流れが今も昔と変わらないように、潜在された意識のなかに「正しい」心の教えとして記憶している人々もいるはずである。
正しい心の教えを求める人の心の深層には、自分では気づかずとも、かつてそういった心の学びをしている人たちが多いのである。
水については語ったが、塩についてはどうだろうか。
これも、生物にとっては大切なものである。
互いに両極端にある水酸化ナトリウムの塩基性分と、強酸性の塩酸とが化合して、中和され調和された塩が生まれてくる。
私達に、「甘い辛いも塩加減」という言葉があるように、甘い辛いの極端も塩によって中和されてしまう。
魚、野菜などが腐らないように利用され、私達と切っても切れない縁によって結ばれているのが塩です。
また、縁起をかついで、水商売などで塩をまく、という習慣もある。
このような習慣は、中和、調和が根本であるが、最近では、自分に都合の悪い人に塩をまくようになった。
形より心の在り方のほうが問題なのだが、しかし、塩をまくときは、人はそれになかなか気がつかない。
清める、ということは、調和する、ということだ。
そのことが解っていたなら、塩をまく前に、人間同志が心を打ち割って話し合い、互いの信頼を造り出すことが先決であるはずだ。
心を打ち割って話すといったことは、自己中心の考えで、相手の心との探り合いや、自分に有利な考えだけを持っていては、不可能なことである。
自分の欠点も長所も隠すことなく出し、中道の心で、相手も自分も正しく見ることが、調和への一歩であるということだろう。
双方に偏りのない判断と行動、それが中道であり、大調和への道に通じるものである。
まして、権力や武力で相手を支配しても、一時の形ばかりの調和ができるだけで、混乱を生むだけだ。
肉体的な行動に制限を加えても、中道の、調和された環境はできないのである。
すなわち、肉体的にいくら制約が加えられても、主(あるじ)であるその心まで支配はできない。
心のなかで納得できることが、外面的な行為として連動されなくては、本当の調和にはほど遠いものということだ。
宇宙の意思である大調和は、私達に与えている熱、光の一切、大自然の調和において示されている。
それは、慈悲の姿であり、愛の姿であり、天の心の現われであるということだ。
ゴーダマーブッタの説いた、法華経の方便にも、泥沼にしっかりと根をおろして見事な花を咲かせる蓮の花が使われたように、私たち人間が、逆境や試練のなかでも蓮の花のように立派な心の花を咲かせなくてはならないということを教えている大自然は、常に私達の師といえるのである。
そしてその師は、塩の状態をとおしても、中道の調和を教えているのである。
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