人間の業想念・言葉の届かない人

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会話
言葉の届かない人
会話というと普通は相手の話を聞きながらも、自分の思いや意見を話すといういわゆる、聞き手と話し手が交互に語り合うことだと思うのですがいかがでしょうか。
しかし、なかには自分の話ばかりをして、相手のことには一切構わずに縦板に水の如く弁舌すこぶる激しい人もいます。
よくもまあこれだけ一方的に話せるものだと感心するというよりは、唖然とするばかりで聴いている私もさすがに疲労感が一気に増してくる。
相談者が直接おいでになって一時間のカウンセリングという場合でも私が一方的に話して相談者に話しをさせないということはありません。
むしろ、私のやり方は、相談者が話しやすい環境、条件を与えて極力、話をさせることによって相談者のおかれた状況を把握しやすいようにもっていくのが常です。
ですから聞き上手になることが会話を進めていくうえで欠かせない方法だと思っています。
ところが、「きょうはどういったご相談でしたか?」と声をかける間もなくしゃべり始めて止まらず延々と二時間以上も、過去の自分の功績を並べ、自分が被害者的な立場の如く語り、自分は善人である、他は悪であると言わんばかりの話題を並べ、実力という言葉は使わなくてもそれを言いたげな言葉で語り、自分はやってるんだ、支持されているんだと能弁に語る。
結局このケースでは、二時間ちょっとのなかで私が言葉にした時間は正味5分もなかったかと思いますが非常に珍しいケースです。
相談ではなく、自己主張のために費やした時間という観が否めないのだが、人間どうすればここまで自己中心的、傲慢になれるのだろうかと考えてみたが、やはりその人の心の深層に業を観てしまう。
人間の業
業はどうしてつくられ、どういうものを業というのか、業想念について述べてみたい。
業を称してカルマともいっていますが、このような言葉はある程度の年齢になればご存知の方も多いでしょう。
カルマとは強い力でグルグルと回り続ける性質のことををいいますが、これに足(心)をすくわれると、人間はなかなかここから離脱できなくなります。
したがって、業のとりこになると、その人生は灰色になってくるでしょう。
人間の業はどうして生じたかといえば、それは一言、何度も生まれ変わる過程において生じたものだといえるでしょう。
地上に降り立った最初の人類は、決して心を汚してはいないのですが、ところがこの現世に生まれては死に、生まれては死んでゆくにしたがって、人びとは物やお金、地位、名誉、その他、衣食住、などに執着し、人間関係においても争い、部族の争いとなり、人種の争いとなり、国家間の争いとなり、自己中心的となり、心に黒い想念を重ねていったのです。
故に、人間は、まずその黒い自己の想念を払拭することが人生の目的となり、その目的を果すことが自分の心の平和、調和につながり、人類調和の大きな前提になってきたのであります。
黒い想念とは、上記のとおり、執着です。
眼、耳、鼻、舌、身という肉体の五官に左右された自己保存の執着が、それぞれの業をつくっていったのです。
眼で見る物に執着し、耳で聞こえることに対して執着をし、鼻で嗅ぐことに拘り、身で感じることに執着して、「これで足りる」という知足を忘れて欲望のままに生きるのです。
このように、業とは、人びとの心による想念と、行為における執着が、つくり出したものといえるでしょう。
この意味で業は悪です。
非常にせまい意味では、善と思えるものも業となります。
実際にあった相談ですが、教育者の家庭に想像もつかないような悪が芽生えるのも、善という名の執着、教育という名の執着意識が強く働きすぎ、家族をしぼりつけてしまい、子どもをつぶしてしまうからです。
「ああしてはいけない」「こうしなければならない」「こうしなさい」というように、善への執着も業をつくります。
善にとらわれると、四角四面な心になってきます。
こうなると善が善ではなくなります。
正しさにとらわれて傲慢になることもまた正しいとはいえません。
ほんとうの正しさは、決して押し通すことではなく、偏りのない心として自分のなかに持つべきものだということです。
要するに業とは、五官六很にもとづく執着の想念がつくり出した黒い循環の想念であって、換言すれば、とらわれた心、偏った心、アンバランスな心、これを業というのです。
このために、善にしろ、悪にしろ、業をつくってゆきますと、それに心がひきまわされます。
悪いと知りつつ悪を犯してしまう。
人の意見が正しいと思っても、その意見にあえてさからい、逆な方向に自分を持っていってしまいます。
素直になれないほど自分の心が拘り、執着してしまっている。
そこにあるものは、奇癖、頑固、優柔不断、驕り、傲慢、虚栄心、見栄、でありこれらはみな自我心(業、エゴ)の作用によるものです。
 業想念というのは、地上の相対観念に自分の意識、魂がぶりまわされている状態をいいます。
銭は絶対であり生命の次に大事なもの、地位が高ければ人びとから尊敬される、働くのはバカバカしい、人生は面白おかしく過ごすほうが得だ……といったようにです。
したがって、業想念は、やがて業をつくってゆき、来世に生れても、その業に引きずられる要因を生み出してゆきます。
業にしろ、業想念にしろ、私達は、大なり小なりその影響をうけながら生活しており、生まれ変わっているというのが現実です。
そこでこうした業から抜け出すにはどうすればいいかとなると、自分自身の偏った思考を改めて執着しない、拘りを捨てる、そういった想念と行為をすることが大事なわけです。
なぜ大事かといえば、とらわれが多ければ悩みも多いはずだからです。
悩みが多ければ人生は灰色になってくるでしょう。
心に安らぎは出てきません。
真の安らぎは物事に対する執着から離れることにあるからです。
古来より、「捨てる」ということを多くの宗教家、特に仏教指導者たちは説いてきました。
また、解脱という言葉がありますが、これは、人間の宿命的な業から離れたことをいうのであります。
つまり、もってうまれた自分の業から離脱できた悟りの境地をいうのです。
他と自分を比較するという相対的な業想念にふりまわされず、偏りのない、心のバランスがとれた生活に意をそそぎ、安らぎのある自分をつくっていきたいものです。
本来は、昨日から学び、今日を生き、明日へ期待する生きかたでありたいものだが、過去に拘り、今日を暗くして苦悩し、未来を見失うような生き方はすべきではない。
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