女性の自己愛
日本では江戸時代の初代将軍、徳川家康の時代から奥女中のなかから選ばれた家柄や容姿の優れたものが側室として将軍の寝間の世話をしていた。
世界にみる一夫多妻がある国の底流には、男尊女卑の思想が流れており、女は男の道具でしかなかった。
もともとこうした思想が生じたのは、男は腕力にすぐれ、女はそれに憧れを抱くようになったからであった。
いってみれば力がすべてであり、力は正義であり、弱肉強食の動物界の姿が人間社会に持ち込まれていたといえるだろう。
力は正義とする思想は、今日でもなお人々の心の底に流れており、この思想がいろいろな面に顔を出している。
政治も、経済も、教育も、国と国との外交にしても、昔ほど露骨さはなくなったが、最後の切り札となるものはやはり力である。
軍拡は無益だといっても、米ソを頂点として、どんな小国といえども、多大の犠牲を払ってもこれに力をそそいでいるし、経済は競争を建前として動いている。
また教育にしても、才能教育、天才教育が巾をきかせ、科学技術が何よりも優先している。
腕力から頭脳に……過去と現代では、その力のおき方が単にこのように肩代りし、形を変えているにすぎない。
男のこうした世界に対して、女はそれに魅力を感じ、追随している。
一夫一婦、男女平等とはいえ、心理的に男女にこのような心の動きがあるかぎり、男尊女卑の弊害はなかなか崩せまい。
この弊害を崩すには、まず五官六根という煩悩から離れることだが、平均的な考えは、まず男にあっては、力は正義とする本能的思考を改めることだ。
力は正義とする煩悩は、地位、名誉、権力欲などを生じせしめる自己保存が根底にあるが、現実的には、孤独感、対立感、そして競争心、こうした煩悩に火をつけることになる。
煩悩の終着点は常に虚しく、救いのないものである。
先を争い、地位や名誉を得れば、肩の荷は重くなっても、心の安らぎはますます遠のいて行く。
心の安らぎは、自分と他人との壁を外し、助け合う愛の共同社会にしかないものである。
愛の共同社会は、そのまま天国の社会を映し出している。
一方、女性の心的地位の向上は、肉体的自己愛から脱却することである。
男が頼もしく、頼り甲斐があると見える心的発火点は、男とはちがった自己の肉体に対する偏愛が病巣であろう。
腹を痛めた我が子は自分の分身のように思い、我が子を養育できるのも、こうした自己延長の偏愛が一つの支えになっている。
決して偏ってはいけない。
男女の数は、あの世もこの世も一対一であり、男が少なく、女が多いということはない。
地上における男女の比は、戦争や、その時々の思想、行為によって多少のアンバランスをみることはあるが、やがて男女は一定の比率となってくるもので、もともと平等に出来ており、一夫一婦は天の計いである。
女性が男性と対等の立場に立つにはまず経済的基盤が必要と考える人もいるが、それは、経済優先の今日の社会思潮が生んだ思想であり、この考えには、もともと無理がある。
家庭や子の養育を誰がするかである。
人間にとって、情緒教育は欠かせないものだし、情緒教育には家庭が一番である。
親子のつながりは約束ごとであるし、その約束ごとは家庭を通して果たされていく。
生まれ出た子どもは、国や社会施設で面倒を見ることになれば、こうした約束事が果たされないばかりか、員数教育に流れ、片寄った思想が育ち、混乱に輪をかけることになろう。
女性の役割は家庭にあって、次代の子弟を正しく養育することであって、それは男とはちがった役割を持つものなのである。
つまり、女性が子を生み、子を養い、子を育てることによって、私たち人類は絶えることなく、連綿とそのきずなを保つことができる。
もし、女性のこうした役割がなく、子を生むことがないとすれば、私たちは過去と現在にしか生きることがないし、地上での生活の場を失うことになるであろう。
そこには、魂の進歩も、転生もないことになる。
私たちに転生があり、輪廻という法に生命が宿るのも、そして、過去、現在、未来という連続された生命が成り立つことも、いってみれば女性のこうした役割があるからである。
女性のこうした法を生かす特性は、天が与えた義務であり、責任であるといえよう。
こうした意味において男は現実社会に、女は未来社会にその義務と責任を有する、ということになろう。
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