正しい人の悪しきカルマ(業)

暴力

頑固な正しさの弊害

親しかった友人同士が些細なことから疎遠となってしまうという感情のもつれはよくあることだが、夫婦でも事あるごとにお互いを裁いている家庭もある。

人間は、輪廻の中で、怒り、悲しみの種を心に蒔き、同じような場面に直面すると、再びそうした感情に襲われ、自分を失っていく。

すなわち、思う、念ずることはそれが善悪の別なくモノを生み出し、形を創って行くものだということです。

自分は正しい、自分は間違っていないと言っても、実はそれが相手の立場を思いやらない、自分だけの価値観による判断であることによって、調和を欠くことの原因となり、相手に不快な思いをさせるとすれば、それは正しいということにはならないのだ。

更によくないことに、自分が正しくないということがわかっていても後に引けず、自分を押し通してしまう人の場合であるが、これはその人自身が自分のカルマ(業)に引かれて、理性と知性の欠けた、感情が勝った心の傾向性によるものだといえるだろう。

ここでいう正しいとは、自分一人の偏った価値観による正しさの事ではなく、相互関係のなかにおいて、調和を乱さないこと、双方の関係に不調和が生じてはならないことを以って、真の正しさというのである。

ことに、孤立する傾向にあったり、人から避けられたりする人の場合は、往々にして自分の判断が正しいといって、相手の意見に添えずに自分を押し通すことが多いものだ。

しかし、これはやはり自我であり、こういう傾向にある人の場合、良縁さえも自ら断絶することになっていくものである。

人間の行動はこの感情の動きに左右されやすい。

人間の行動の70~80%は感情の動きに依存しているといえよう。

感情のない人間は人間とはいえないだろうが、しかし感情のみに心をゆだねた人間の末路は悲しいものとなるだろう。

ものに感動する、感激するという感情と、怒り悲しみの感情は同一の領域内にあっても、その出所はちがうのだ。

つまり、心臓をバクバクさせる怒りは、感情領域の表面的な局所から生まれる。

感動、感激の感情は同じ感情の領城内にあっても、もっと深い局所から生じてくるものである。

それは智性や理性がつながった領域内から生まれてくるのだが、表面的な心の層から発した感情であるか、深層の領域から発した感情であるかの違いによって結果は大いにことなってしまうもので、その差は天地ほどの違いとなる。

従って、自我による自己主張や、不満、愚痴、怒りなどは、表面的な感情領域から為される思いであり、言動であると言えるだろう。

表面意識と潜在意識

私達の心は表面意識と潜在意識に別れている。

そうして智性、本能、感情、理性、意思の五つの機能から成り立っている。

さらに五つの機能は、表面意識と潜在意識に別れてはいるが、潜在意識のある部分に至ると、これら五つの機能は一つにたばねられてしまう。

すなわち、同一の領域内になってしまう。

各人の表面意識の表面の部分が仮りに海上に表われた一つ一つの島とすれば、海面下は海底という陸続きとなり、島の概念がなくなってしまうのと同じである。

人間の行動が感情に左右されるところが大きいとすれば、智性や理性、そして調和を基盤とした本能の深い部分から発せられた調和された感情が望まれよう。

そして、そうした自己中心的でない、自我からのものではない、調和された感情というものは、天が与える自然の条理に適うものであり、各人が至福に至る近道ともなるであろう。

宇宙大自然の法則というものは、個人の感情や善悪に関係なく存在する。

自然が雨を降らせ、風をおこし、土に滋養を与えるのも、法則という循環の秩序を運用するためなのだ。

法は科学的に出来ている。

だから人間は、その法にそった生活、心と行ないをすることによってのみ、この地上に立つことが出来るのだ。

人間が表面的な感情に左右され自分を動かすと、その分量だけ自然の条理という法に反するため苦しみをつくる。

つまり、怒りには怒りが、悲しみには悲しみが、法の作用により返ってくる。

ならば慈しみと愛の心で人に接し、そうした心を満たした自分自身を造り上げるべきであろう。

私たちの周りに存在するものは、すべてが心の師であり、人間だけが師ではない。

また、人間としての師を敬い、師の示すことを守ることは、愛の行為につながる

師によって心の安住がはかられ、生活に喜びを得たとすれば、それに報いるために、師のすこやかな教え導きを実践するのは自然の条理ではないだろうか。

師を敬う心は、子が親の恩に報いる心と少しも変わるものではない。

師の教えを守ることは報恩感謝の表われだ。

といって、その心がすぎて、師以外の人間を否定したり、相手に憎しみを抱くことは、愛の行為とはいえないのだ。

正しい法則の愛は、愛・憎の愛ではない。

自然が与える慈悲の心に適った、偏りのない愛しか愛とはいえないのである。

大自然はこの地上の生ある者に慈悲のめぐみを与えている。

生活が出来るように、喜びが享受できるように環境を創造している。

愛は、天が与えた慈悲の環境と、その心を、生ある者が生活に生かして行く行為であるといえよう。

その意味において、奉仕すること、施しをすること、無理のない犠牲というものは愛の行為の表われといえよう。

供養という言葉の意味を正しく理解しなければならない。

この地上界は、動・植・鉱が、たがいに、その身を供養し、犠牲によって成り立っている。

私達の食べ物をみても、そこには動物の肉があり、植物たちの奉仕によって支えられていることを知ることが出来よう。

動物も植物も、皆、生き物である。

そうした生き物が、もし、食べられることをこばんだら、人間は一日としてこの地上に生きることが出来ない。

動物、植物達は、人間に身を供養することによって地上界の目的を果たし、再び地上に生を得る機会に恵まれる。

私達はそれらの食べ物に対して、感謝の心をもって食し、その心で地上界に調和ある楽園をつくるべく生まれているのだ。

人間同志の行為も、ある者は服をつくり、靴をつくり、米をつくり、住まいをつくり、それぞれが自らの仕事を通じてその身を供養することによって人びとの生活が成り立ち、自分もまた生活が維持される。

すなわち、この地上界はそれぞれが身を供養するという愛の行為によって成立しているのである。

供養する者がいなければ、地上界の組織は明日にも互解してしまうだろう。

今日の人類にしても、自己保存と足ることを知らぬ欲望にのみ、心をくだいている。

地上の人間は他の生物(動物、植物、鉱物)の供養によって生かされているが、その供養を無視 し、あるいは軽んじて、勝手気儘(きまま)に生きたとすれば、調和の基礎は根底からくつがえされるだろう。

人類は、自身の魂の向上と、地上ユートピアを実現するという目的で生まれており、その目的を実現するために、動物、植物、鉱物の供養をうけているのだ。

自然の慈悲と愛の下に生き続ける人間が、その目的を忘れ、めいめいが自己保存と欲望の渦中におぼれれば、行き着く先は、滅亡の道しか残っていない。

私達は、天から受け継いだ慈悲の心を忘れてはならない。

愛の行為者として、人間本来の自覚に立たねばならないのだ。

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