魂の真の自由と不自由

悩み

妊婦の苦悩

妊娠8カ月の独身女性28歳が「うつ病で向精神薬を服用していますが辛くてお先真っ暗です」といって相談にみえた。

私は、お腹の赤ちゃんを考えると、向精神薬を処方した心療内科の医師に疑問を持った。薬を減薬し、それに慣れたら早めにやめなさいとアドバイスした。

心療内科の先生でも妊婦には薬を出さない良心的な医師もいる反面、見解の相違というより、営利主義の心療姿勢に疑問を持たざるを得ない。

この女性、90分間お話しを聞いたが、私のみるかぎりではうつ病ではなく、ただ彼との関係で不安、悩みがあるだけで薬を服用しなければならないような症状はない。

男と女の関係は恋愛だけなら差ほどに責任もないだろうが、妊娠したとなるとそうはいかない。

籍を入れてくれない彼に不信感を持ち、不安な状態にまで追い詰められて心の自由を見失ってしまっていた。

これまで優しかった彼が、妊娠を知った頃から様子が変わり始め避けるようになってきた。

話しを聞いていて矛盾だらけの彼の行動に希望は持てないと判断し、厳しいかもしれないが「最悪はあなたひとりで赤ちゃんを育てなさい」と忠告した。

強引に結婚を迫っても幸せにはなれないと判断したからである。情けない男だ。

「自由」という言葉がある。

他への迷惑を省みずに勝手気ままに生きることが自由だとするのか、この言葉の本来の意味はどういうことをいうのだろうか。

きょうは、社会生活のなかにおける真の自由ということについて考えてみたい。

人の心というものは一念三千という言葉が示すようように、三千世界、つまりどこにも通じる自由自在なもの、そうして無限の大きさと広がりを持っているものです。

この世の人間は肉体を持って生きていますから、どうしても肉体五官に左右され、その影響に負け、煩悩が湧き、その煩悩に翻弄されながら生きています。

その点、あの世の一定の段階に進んだ霊たちの場合は、執着から離れていますから自由な心を持っていて、比較的どこへ行くにも自由に飛び回ることができます。

さらに光りの天使ともなると次元を超えて往来できるだけの心の自由をえているのです。

逆に、心に執着があり、魂を曇らせたことで次元の低い世界にいる霊達の場合は、こうした自由さは行使できず、地獄という世界で苦しむことになります。

その執着、未練のために心が不自由となり、生前の場に居たり、遺族に寄り添って離れようとせず付きまとったりして地縛霊や、憑依霊となったりするのである。

自由とは本来、心の自由、あの世の天使たちの自由さ、そしてそれは人間本来の心の機能をいったものです。

人間は肉体が病気をしたり、どこか不具合が生じてくるとその体の状態に左右されて心まで乱してしまいがちでありますが、そうであってはいけません。

体が病んでも心まで病んではならないのです。

こんなことを言うと、「きれいごとを言うんじゃないよ」とお叱りをいただきそうです。

しかし、敢えて述べさせていただきますが、私自身が6年前に倒れて死線をさ迷うような状態を経験し、それを超えてきたものが何であるかとなると、それは自分の心の内省と調和、そして地上にいただいた命の尊さへの感謝天命を全うしなければ、という一念でありました。

こうしてみると、人間本来の心の機能とは自分で自分の心を縛ることなく、いつも調和されて、慈愛に満ちて光り輝いていることをいうのです。

少しばかりの自覚症状に己の本質を見失ってはなりません。

意識をしっかり強くもっていただきたい。

ところがそうした心の自由を持つ人間が、一度肉体という衣を着ると、その肉体の五官機能のなかで生活しますから肉体のないあの世の霊人よりも不自由になってきます。

私たちのように地上で暮らす人間は、心の中で、ああしたい、こうしたいと思っても、肉体の制限のなかでしか行動できません。

例えば、海の上を歩いてみたい、早く走りたい、空を飛んでみたい、遠くの人と話をしてみたい、と思っても、それはできません。

そこで、心の要求を満たすために、人間はいろいろと考え、水上に浮かぶ船を発明し、早く移動する自動車をつくり、空を飛べる飛行機をとばし、遠くの人と話せる電話を考案してきました。

つまり、肉体という不自由さを、こうしたさまざまな乗り物や機器を発明することによって、少しでも緩和し、自由さを取り戻したいと考え続けてきたわけです。

いうなれば、あの世の自由な体験を、この世で現わしつつあるといってもいいでしょう。

しかし肉体という衣を着ると、心の自由さは、ふつうでは不可能に近くなってきます。

肉体と心が分離できる人は、心の自由さを知ることができます。

この地上で生きながらも、肉体的制約がありながらも自分の内にある調和された自由な心、執着しない心、体に囚われない心で生きることが可能であります。

心に執着が無ければ、仮に、肉体的な苦しみがあっても、それを大きな苦しみと思わず、心は安らぎ、平静を忘れず、他に対しても慈愛の心を忘れることがありません。

自分のことだけでいっぱいいっぱいの人は、まだまだ自身の視点が狭い境涯であることを知らなくてはならないのです。

しかし、人は本当の心の自由よりも、肉体の自由を求めようとします。

心の自由を求めているつもりでも、実際は思想の自由、言論の自由からはじまって、なにもかも自由に結びつけてきます。

家族で暮らしていても、自分は不自由だと不満や小言をいっているうちは、その環境が進展して明るい笑顔のある家庭とはならないだろう。

そうすると、この世の中は混乱してきます。

三次元は四次元の投影

この地上世界は、万事が三次元的にできていますから、三次元のルールをはずすと、苦しみが生れてくるのです。

だが、この三次元は四次元の投影であり、肉体は心(魂)の投影であることを知らなくてはなりません。

三次元のルールとは中道という片寄りのない生活を行動に移すことが基本です。

このルールが崩れてくると、作用、反作用の法則が大きく振幅し、心にも体にもさまざまな障害が現われてきます。

人びとの悲しみ苦しみは、こうしたその心と肉体の関係を理解していないためと、ルールを踏みはずした生活行為にあるわけです。

真の心の自由というのは、この世に肉体を持って生きていても常に心は四次元以上、五次元、六次元、超次元の世界なのです。

心は宇宙と一体であります。

したがって、肉体を持つかぎりは、調和という秩序にしたがい、お互いの心の自由、心の尊厳さを認め合いながら生きていかなければならないのである。

※これまで2011年10月から2年間弱、一日おきに記事を投稿してきましたが、仕事と奉仕活動としてのカウンセリングで毎日が忙しく、さらにメールでのお問い合わせやご相談にも時間を割いてきましたが、最近は記事を書く時間が取れにくい状態にあります。

つきましては、26年1月からは初回が1月6日(月)週に一度のサイクルで毎週月曜日にアップする予定でおります。

いつも楽しみにして、毎日このブログを訪問してくださっている数百名の方々には申し訳なくも、本当に心から感謝を申し上げます。

記事投稿の頻度が少なくはなりますが今後も訪問をお待ちしております。

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