religion(宗教)&科学

太陽系

イメージが良くない宗教界

日本では全体的に宗教という言葉に対してネガティブイメージが強いように思われるが、あなたはどうお考えだろうか。

戦後の宗教界においては強引な折伏なども行われ、入信にあたってこれまでの仏壇を焼かれるということがあって、その家族や既成宗教の信仰者から批判の声が囁かれたこともあったことは事実である。

このようなことは私の親戚筋にもあったことだ。

カルト

一方、19年前の1994年(平成7年)6月27日に、長野県松本市で、猛毒のサリンが散布され、死者8人・重軽傷者660人を出した事件。

これは、平和国家としての日本で、一般市民に対して無差別に化学兵器が使用されたテロ事件であり、ずさん極まる捜査を実施した警察とマスコミのなれ合いの果て、無実の人間を犯人にでっち上げた免罪報道被害事件でもある。

オウム真理教が一連の事件を起こした後の「カルト」への一般市民の反応、そこから繋がる「宗教全体のイメージ悪化」は相当に助長された観はある。

元来、カルトという言葉は「祭祀」とか「儀礼」を意味するラテン語 “cultus” に由来するといわれていますが、本来は純粋に宗教を表す言葉で、決してネガティブなイメージではなかったはずである。

だが、現代ではカルトというと怪しい、いかがわしい、危険、邪教の代名詞のように受け取られ用いられるようになってきた。

怖いだろうが、カルト教団に起きた実際の事件を紹介しておきたい。

1978年の35年前、ガイアナでの人民寺院の信者914人以上の集団自殺等(内267人は18歳以下の子供)を皮切りに、マスメディアが「カルトと洗脳」を問題視するようになり、その後「マインドコントロール」等の概念と結びつけて考えられるようになる。

この集団の教祖、ジェームス・ウォーレン・ジョーンズは自らが精神疾患者であり、実質的な監禁状態におかれた信者への暴力事件やレイプが常態化し、さらに信者に対し銃を使った軍事訓練をも行っていたのである。

死者の中には無理矢理自殺を強要され、300人程度が他殺されたという報告が、かろうじて集団から逃げた人たちによって証言された。

実際に生存者の証言では死を拒否した信者は集団で押さえつけられ、無理やりシアン化合物を注射されたり、逃げ出そうとして銃撃され殺害された者も多数いるという。後の検死で本人には到底刺せない位置に注射の跡があった死体や、背後から撃たれた死体なども多数発見されている。

同時にジョーンズも自らの妻子を先に自殺させた上で、自らのこめかみをピストルで撃ち自殺した。検視の結果、ジョーンズの体からは大量の薬物が検出された。

なお、この集団自殺の生存者はジョーンズタウンから脱走した167名のみであった。

同日夕方にはジョージタウンの教団本部でメンバーのシャロン・エイモスが自身の3人の子供たちを包丁で殺害後自殺している。

この事件による犠牲者は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロまで、アメリカ市民の事件による死亡者数では最大であった。

日本でも時期は遅いものの概(おおむ)ねアメリカと同じ流れがあり、「異端宗教」としてのイメージの後の「オウム事件」、そして「カルト」や「マインドコントロール」の社会問題化と進んでいく。

公にはなっていないが、国内の宗教や霊能者、カウンセラーによる被害者がたくさんいるのは事実である。

私の所で受けた相談によっても明らかであるが、告訴したり、裁判問題になるケースは非常に少なく、表面化するのは被害者の全体からすれば極一部で氷山の一角でしかないだろう。

多くのカルト教団は「我々は宗教団体である」とバカ正直に教えてくれるはずもなく、一般市民の「悪質な新興宗教がある」というだけの薄っぺらい知識では、あの手この手のなカルト教団の手口に翻弄され、引っかかる人が絶えない。

彼らは「心の隙間」「無知」を狙ってくるのだ。
宗教と科学

宗教というと、いかにも抹香臭く念仏をあげたり、経文を学ぶことのように思われていますが、本来はそんなものではないはずである。

宗教の目的とするところは人間の心を知ることであり、その心がわかれば自然の理も明らかとなり、人間としての在り方、安らぎが生まれてくるものです。

俗に、安心立命ともいわれていますが、この言葉の意味よりも実はもっと深く、広いものであり、己自身の調和と同時に、地上の調和をはかるもののはずである。

したがって、この目的から外れたものは宗教とはいえないだろう。

いたずらに殿堂をつくり、全国に支部の事務所を増やし、信者を増やすことに奔走し、我こそはと反り返るものがあるとすれば、それは宗教の本旨から遠く離れたものである。

一方、科学の目的は、自然の解明にあると同時に、地上の調和(生活を豊かにする……)に役立つためにあります。

化学にしろ、物理学にしろ、自然の不思議を究明し、人間生活をより豊かにエンジョイするためにあるのであって、ただ単に文明の利器によって贅をきわめるためにあるのではない。

宗教と科学、この両者は一見異なった世界、次元のちがう分野のように思われますが、その目的を分析解明してゆくと、全く軌を一つにするものであることに気づきます。

宗教も科学も、この人間社会をより進化させ、豊かにするためにあるからです。

正しい宗教は、人間の心を解明しますが、科学は、自然の神秘、そのなかから、自然を動かしている、法則の存在の発見につとめ解明します。

したがって、そのいきつくところは、ともに同じです。

自然を科学すればするほど、その神秘さがわかり、偉大な科学者ほど宇宙意識の実在を信じるようになります。

すなわち自然の解明は、人間の解明につながってくるからです。

逆に、人間の解明は、自然の謎を解くカギが与えられます。

このように人間と自然というものは、もともとひとつであり、人間と自然を切り離して考えることはできないものなのです。

大自然を大宇宙といい、人間を小宇宙ともいいます。

地上の水圏は71%、陸地は29%であるという。

人間の肉体も水分が約71%、蛋白質、燐酸カルシュウムなどの部分が約29%です。

地球と人体の構造はまったく同じように作られているというこの神秘。

また人間が誕生する、あるいは他界するその時間も、潮が満ちるときに誕生し、干潮のときに息を引き取り、女性の生理現象についても、ばらばらではなく、月の公転と関わりながら干潮、満潮に密接な関連を持っています。

このように科学する心は、そのまま宗教の目的である人間の心、自然の心につながってゆき、大自然の法則につき当ってくるものです。

ゆえに、正しい法則、真理というものは、物理学でも科学の面から推しても解明されてきましょう。

もしも既成の宗教で自然科学の面から割り切れないものがあるとすれば、その宗教はどこかに間違いがあるというべきでしょう。

もっとも、地上の科学は真の法則そのものをまだとらえてはおりません。

しかし、心の法則は今日の物理学の範囲内でも、結構うかがえるものです。

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