禍を転じて福となす
社員同士の確執がある一方で、上司によるパワハラ、セクハラ、といった相談を聞くにつけ何とも悲しくもあり、寂しい気持ちにもなります。
また家庭内の夫婦間の諸問題、兄弟姉妹の確執、ぎくしゃくした親子関係、職場における諸々のストレスに対する受け止め方の相違、育児の疲れにイライラする若いママの苦しみ。
心の葛藤のなかには、相手に変わることを望んでいる気持ちが大きく自分の心を占めている場合があります。
人間はなぜこうまで自己中心的になるのであろうか。
素直な心ということの重さは、私自身が最も大切にしている言葉であり心がけでもあります。
様々な危機に直面したときにこそ素直な心になれなければその危機ははとても困難なものとなるばかりではなく、乗り越えることができなくなってしまうことも多い。
人間の素直な心の偉大さは、危機、困難、試練というこれらの苦境を逆にチャンスとして受けとめることができようになるし、むしろ禍を転じて福となすこともできるようになるものです。
お互いがそれぞれの立場だけで物を考え、発言をし、事を為し、あるいは仕事をすすめてゆくことは、また人生の歩みの上においても、ときに非常な困難、危機ともいうべき局面にぶつかる可能性を大きくすることになっていくでしょう。
そして、このような難局に直面した場合、人によってはそれに負けてしまい、ゆきづまってしまうような姿もあるのでしょうが、その反対に、それらの難局を一つのチャンスと捉え、非常な努力を注いで取り組んだ結果、ものの見事にその難局を乗り越えるばかりではなく、むしろよりよき発展を遂げた、心も成長した、というような姿もあるのではないだろうか。
後者のような人間の生き方は、いわゆる″禍を転じて福となす”といった姿として大いに称賛されるに値する行為といえると思うのです。
しかし、こういうことは、社会の関わり合いのなかでお互いが素直な心になればこそ事がうまく、スムーズに運び、この後者のような姿を実際にあらわすこともできるようになるのでしょう。
すなわち、すなおな心の効用の一つとして、禍が転じて福となったというこではないでしょうか。
それでは何故、素直な心になれば禍を福にすることができるのだろうか。
これについては、いろいろな見方、考え方ができると思いますが、たとえば次のようなことも考えられるのではないかと思います。
すなわち、いま仮に世の中が不況だからという理由でお客さんが減ってしまった接骨院やカイロプラクティックや、整体院があったとします。
これらの治療院としては、いわば商売上の危機を迎えたわけです。
私の近くでも閉鎖した店舗が数店あります。
しかし、これらの院のオーナーやスタッフに素直な心が働いていたならば、お客が少なくなったからといって、少しも慌てないだろうと思うのです。
というのは、素直な心の院であれば、「この不況は自分の力を存分に発揮できるチャンスだ」、「自分の本当の勉強ができるときだ」というように受け止めるだろうと思うからです。
したがって、その整体院や接骨院、カイロプラクティックのオーナーやスタッフは、従来の自分たちの商売のやり方とか考え方を、私心なく、第三者の立場に立ってみつめ、考え直すはずです。
今までのやり方を徹底的に反省してみるわけです。
食べ物のお店であれば、これまでの昧かげんはどうだったか、素材の味を殺していないか、お客さんに接する態度はどうだったか、食堂も院の経営も同じでしょう。
来院者のニーズに応えきれているのか、通り一遍の作業になっていないか、その患者さんのそれぞれの状況をしっかり見極めているかどうか、といったことを素直に真剣に考え直してみることでしょう。
食べ物のお店も場合によっては、お客さんに加減をたずねてみる。
そして、一杯一杯の食事を、心をこめてつくり、新しい工夫も加えてお客さんにさし上げる。それで、従来よりも一段と昧もよくなってくる。
こういった姿になれば、お客さんも十分に満足されて、「同じ食べるなら、あの店へ行こうか」といったことにもなるのではないでしょうか。
私の故郷にとても美味しいラーメンと餃子のお店があります。
今は年に一度のお盆にしか立ち寄れないが、そのお店のラーメンと餃子を食べて40年になる。
味が変わらずに40年は素晴らしいことです。スープを飲み干しても後で喉が渇くということがなかった。
しかし最近、スープを全部飲み干すことができなくなった。
味噌ラーメンのお味噌が変わったことと、マスターがお店に出る機会が減ったこともあるのでしょうが、お味噌の量と味が濃くてこれまでのようにダシのきいた美味しいスープを全部飲みたくても残してしまう。
マスターにこのことを伝えて帰りたかったがあいにく不在だった。
私の整体院では、ほぐしの強弱は勿論だが、来院者が望むポイントに正しく手が行っているか、必要なポイントを捉え切れているかどうかを確認するように指導している。
勿論、それぞれの患者さんが抱えている疑問に的確に答えられるような指導もしてあります。
どれほど医学的な知識を並べて説明しても、施術を受けた患者さんが結果を実感できなければ再び来院したいという気持ちにはならないと思うのです。
接客態度も院長の思いやりや志、そしてスタッフの個人個人の思いの状態が言葉一つにも表れてくるものだと思います。
お客さへ負担にもならず、押し付けでもなく、必要なところはちゃんと受け答えするという、ちょうどいい按配の接し方、つまり接客がでればと願っています。
そうなると、人から人への口伝えによって評判も高まり、自然にお客さんもふえてくることにもなるでしょう。
このようにして、その整体院なり、食べ物のお店なり、会社なり、みんなが素直な心で対処してゆくならば、不況に際してもゆきづまることなく、かえってお客がふえて繁盛してきた、というような姿を生み出すこともできるようになるわけです。
2007年のサブプライム住宅ローン危機問題に端を発したリーマンショックという米国バブル崩壊を動機に、借金の転売による多重債務があり、多分野の資産価格の暴落が起こって世界的に経済が疲弊したことがあった。
このときも景気が低迷してそのあおりを受けて倒産する企業も続出したり、個人経営の多分野の店舗が閉店していったことを記憶している。
私の経営する整体院も来院者が減るのかなと一抹の不安がなかったわけではないが、しかし、こういう時こそしっかりと患者様の声に耳を傾けていかなければと心を引き締めたものでしたが、おかげさまで来院者が減ることもなく逆に増えていく一方でした。
現状に甘んじてこれで良しとする考えほど衰退を招く危険要素はないというのが私の心の根底にある。
もちろん、こうした姿は業界を問わず、どういう商売、仕事でも、またその他いろいろな場合にあてはまることではないかと思います。
つまり、何事によらず、困難に直面して志を失わず、よりよき道を素直に私心なく考えつづけていくならば、そこによき知恵も集まってきて、いままで考えもつかなかった画期的なより良い道が拓けてくるということも考えられるでしょう。
人間の過去の歴史をふり返ってみても、戦争とか天災とか、そういう事あるごと、困難、混乱に出あうたびごとに、お互い人間の知恵、才覚が新たに生まれ、それによって人類の文化が一層すすんできた、という面もあるわけです。
しかしまた、現在も隣国同士で領有権争いを意図的に行っている感心できない戦いもあります。
そういうことを考えてみると、やはり、お互いが素直な心になったならば、″禍を転じて福となす”ということもできるようになってくると思うのです。
こうした点も、素直な心というものの真によって、得難い効用の一つではないかと思います。
そして、こういう効用のあることを思うにつけ、一人でも多くの人々が素直で謙虚な心を培って、いかなる困難に際しても動ぜず、勇気をもってとり組み、そしてそれをよりよい方向へ転じ、進めていって、つねによりよき共同生活を実現し保持してゆくということが、きわめて大切ではないかと痛感するのです。
孔子が「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と言いましたが、君子は誰とでも調和するものだが、道理や信念を忘れてまで人に合わせるようなことは決してしないということの意味であろうかと思います。
これもた根底には人間としての私心を離れた『素直な心』というものがあってのことではないだろうか。
次回は6月16日(月曜日)『永遠なる心』投稿予定
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