心を育てる子育て
心を育てる泥んこ遊び
活き活きして遊んでいる子どもをよく観察していると私が幼少の頃を思い出す。子供はみな泥んこ遊びや粘土遊びや、ニチャニチャしたものをもて遊ぶのが大好きである。
幼児はそのニチャニチャした手指の感触の中に、おかあさんの膝に抱かれてお乳を呑みながら一方の手をおかあさんの胸にいれ、空いた方の乳房をまさぐっていたあの時の感触を感じ、その時に抱いた心の安らかさを味わっているのである。
するなと叱られても幼児が泥んこ遊びをするのはその心の安らかさを味わっていると同時に、なんでも自分の思う通りにこね廻してつくれる創造の喜びを体験しているのです。
服が汚れて洗濯の手間がかかるのを嫌で、子供に泥んこ遊びをさせない母親は、子供の大事な心の成長を妨げているのであり、楽しい泥んこ遊びをさせられなかった子供は心の安らかさを体験させられないから情緒不安定になる率が高くなる。
これは泥んこに遊びに代わる遊びを室内でさせても左程の精神的効果は期待できないようだ。泥んこ遊びは大人のイベントとしても取り入れられている。
何故だろうか。その違いは野外での遊びの違いである。自然とのふれあいが人間の感性を育てることを理解できるだろう。
落着きがなく、ただ騒いでばかりいる子供は母親によって心の安らかさの体験を奪われている場合がある。
このような子供の場合はいくら「静かにしなさい」と叱ってみても治らないのである。これを治す方法は、子供をしかと抱きしめて、母親の膝の上で心の安らかさを体験させる以外にない。
ミルクは抱いて飲ませなさい。
旧ソ連が共産党の闘士を育てるというので、生まれたばかりのあかちゃんを母親の手からひき離し、国家で養育するということをやったことがある。これは完全に失敗に終りました。
抱かれることもなく機械的にミルクをのまされた幼児達がハイハイをはじめるようになると幼児達はお互いに噛みついて血だらけになってしまった。
その血の中を這いずり廻って相手を見ては噛みつくということをやり、結局、育児を共産党主義的考え方とその手段でやるのは失敗だということになり、母親の手にかえされることになりました。
情緒不安定児、自閉症児の多くは母親の膝に抱かれる時間が少なく、また母親がことばをかけることの少なかった子供達である。
うちの子はおとなしくて泣きもしない育て易い子供だということでテレビの前にねかされていた子供が自閉症になり易いというのは注目しなければならない。
いつも耳には入るのはテレビを通して出ている声と音だけで、テレビの方はよくみるが、お母さんの生の声を聞く機会が少ないのでお母さんから自分の名前を呼ばれても、自分の名前を呼ばれたことに関心がない子供になってしまう。
赤ちゃんは必ず名前を呼んで声をかけて抱きあげて、母乳の出ないお母さんでも、しっかり胸に抱いてミルクものませるようにしないといけない。
お母さんの膝に抱かれていた時に味わう心の安らかさ、その安らかさが人間を落着きのあるものにするし、その安らかさが実は私たちが禅定瞑想をする時の心の安らかさになるのである。
だから禅定をする人は、お母さんの膝に抱かれていた時の自分の姿を想像して心の安らかさを取り戻せばよい。母親の胎内も、膝の上での安らぎも宇宙の鼓動と共通の安らぎなのである。
幼時期に愛し過ぎる弊害
かわいい、といってはお母さんが赤ちゃんに頬ずりしたり抱擁したりする。その肌と肌のふれ合いによって相手に対する自己同一化即ち愛の感情が培かわれてゆく。
ところが幼児を愛撫する母親の感情の中に、また子供が小学生の高学年から中学生となり性微が出てくるその頃に、母親が子供を愛撫する中で性的快感に心感を味わい、また、夫によって満たされない性的欲求不満を、子供を見たり、世話をする中で満足させたいというような性的感情が入ってくると、その子供は性的に早くめざめ、ませて性に普通の子供以上の関心を持つようになる。
性的非行に走る子供達は、知らず知らずのうちに親によってそのようにしむけられたのであり、非行に走るに至らない内向型の子供は、頭の中は性のことで一杯になり、性以外のことは考えられず逆にノイローゼなどの精神的疾患を現すようになる。
甘やかされて育った男の子がノイローゼになる一つの要素としていえるその原因は性の葛藤にある。特に気を付けなければいけないことですが母親は、特に男の子供の性的興奮を誘発するような愛撫のしかたをしてはいけないということである。
悲劇の一例
15歳中学3年生の女子生徒が妊娠した。妊娠したその子は産むという。育てられるはずがない。どうするのだろうか。
この家庭は結婚以来トラブル続きであった。家の中はいつも散乱状態で玄関は足の踏み場もなく下足が不揃い、夫婦仲も悪く争いが絶えない。
夫には外に女性がいて妊娠が発覚したのだが、中3の娘さんとほぼ同時期に妊娠している。何ともやりきれない因果だろうか。まさに『親の因果が子に移り』である。
さらに愕然としたのが奥さんにも男性がいた。以前、子供の不登校のことでお母さんと話し合ったことがあるのだが、あまりにも事の判断、ものの考え方が偏り、エゴイズムに満ちており、親の役目を果たせていない。
私がこのお母さんの心に観るものは、不満と愚痴と怒り、恨み、嫉妬の渦である。
このような親でも子供にはしっかりしろと悩んでいるのだから困りものである。この子のご両親は夫が妻に任せっきり、妻は夫の悪口と不満ばかりを口にして、自分の行いは反省する気持が全く見受けられなかった。
改善の為の問題提起をしても、自分に都合の悪いことは認めようとはしない。救いようのない人間もいるものである。気の毒なのは、このような親の犠牲になって苦しむ子供たちである。
この女子中学生のご両親は、あの世に還ったら真っ先に自分たちの為した行動のすべてを赤面しながら詳細に見ることになる。それは心に記録されたストーリを再生するようなものだ。
このような生き方をした人間は、当分は天上界にはあがることが許されない。許されないというより、上がることができない。
私たち人間の魂には、地上人生の一切が記録されて、何度も何度も輪廻転生している。
心をエゴで曇らせた者が光の天上界にあがるには、心のエゴ(自我、執着)をクリーンにできなければ適わないのである。
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