死には宗派の別なし

人間が死んで行くのに、カトリックの人はこういう臨終をしなさいとか、神道や仏教各宗派の信仰によってそれぞれ死に方が違うというようなことはない。

そもそも人間は宗教、宗派を担いで、あるいは曼荼羅をぶらさげて、お経を唱えながら、真言を唱えながら生まれてくるのではない。裸で生まれ、裸で還るのが人間です。何一つ持って逝く人はいない。

生まれてくる時に、その家々の宗教宗派によって、そこに生まれてくる子供達はそれぞれの宗教、宗派にふさわしい生まれ方をするというのであれば死ぬ時も、それぞれ違った死に方をするということになるのかもしれないが、

しかし、生まれてくるのに、私が生まれる家は神道だから神道的な生まれ方をしましょうとか、私の生まれる家は何々教だから○○教式生まれ方をしましようといって生まれてくるわけではない。

死ぬ時も宗教宗派によって死に方が違うということはない。だから臨終に際して心が安らかであるようにという指導も一つであっていいので、指導者達が、それぞれ自分の所属の信者に対して、臨終の時の心得は違うのですというような指導をもしすることがあったとしたらそれは間違っているといわなければならないのである。

宗教とは、なんのために、どのような生き方をするかを教えるものですから、もっと生と死ということを忠実に見つめて法を説かなければならないのに、今の宗教家は生と死をじっと見つめさせる。

魂を見つめさせるということはせずに、単に道徳的なこの世の限りの生き方だけを強調している風潮がある。

浜松のホスピスのある病院はカトリック系であるから特に問題は起らないのであろうが、各大学病院がホスピスのあり方を採用するとした場合、入院している患者は、種々雑多の信仰をしている人があり無神論者もいるのである。

そういう人達に臨終の心得を教えるということになった場合、神道の人には神主さんを、浄土真宗の人には浄土真宗の坊さんを○○教には講師をとか、そんな繁雑なことはできないであろう。

人間が死んでゆくのはみな一つの方法でしかないのであるから、その最後の臨終の心得を教えることができる正しい一つの教えがあればそれでよいということになる。

例えば、アメリカの人間科学研究所では、薬を使わずに瞑想をさせることによってガンや糖尿病を治療するということが始められて20年以上にもなろう。

この研究所で指導している瞑想はキリスト教的瞑想である。

それはキリスト教的というよりもキリスト教的雰囲気の中における瞑想で、瞑想はなにもキリスト教的雰囲気の中だけでしかできないというものではない。

瞑想にしたってキリスト教的瞑想とか仏教的瞑想とか、今はわかれているように見えるが、もともと心を神にふり向けて瞑想するという方法は一つしかない。

日本にも随分とホスピスがふえ、瞑想を治療に応用する病院がふえてくると、今までのように新興宗教が病気治しを教義にするということは必要なくなってくる。

大分前の話しですが、秋田市の女医さんが、『心で病気を治す。』ということをしているとNHKがテレビ放送していたときがありました。

私は日本中の医者が早くこの女医さんのように、堂々と「心で治します」と宣言してくれるようになることを望んでいる。また言葉ではそのように言わなくてもそういう志で臨床医として奮闘している医師が増えつつあることはとても喜ばしく思う。

今の新興宗教がやっているような病気治しの面を全部医者がやることになり、夫婦の調和とか親孝行とか、いわゆる感謝ということについては道徳的立場で取り上げればいいだろう。

そうなれば宗教で扱う分野は、「心と魂」という面だけになってくる。

そうなった場合、今の新興宗教は心と魂の面を充分に指導することはできない。

そうなると日本の新興宗教の役割りは終るだろうし、既成宗教もまたそれを指導することはできない。

実際に真言宗の僧侶に『心と魂』について質問しても『無』だというだけで心に落ちるまともな答えは返ってこなかったのである。

『心と魂』の分野を指導するのは覚者(正しい心得のある者)のつとめ。
医療の現場で瞑想が良いからといって医者がそのような指導をしたとしても、全く医者の手に負えない病気がある。
霊的現象即ち憑依によって起る病気はどんな薬をのませてもどんな治療をしても今の医学では治せない。(その一例として『死後の世界』2月17日投稿を参照ください。)
霊的憑依を受けている人に瞑想をさせようとしても自分で自分の心がどうにもならないのですから瞑想することもできない。
邪悪な霊が憑依してくるのはそこに憑依霊を呼び寄せる条件的雰囲気があるのですから、先ずは何よりも、患者の家族が協力してまず憑依霊に同通するような暗い争いの家庭内の雰囲気をその家族からなくするということをしなければならないものです。
病気になっていて治ったということよりも病気しない方がいいのですが、健康で病気しないという人は病気にならないような生活習慣もし、心が調っているのであり、強さがあり、病気になった人は病気になるだけの不摂生と心の不調和と弱さがあったということでもある。
新興宗教団体では、病気が治ってやっと健康体になった人を、健康体の人よりもりっぱな信仰ができているみたいにほめそやしている。
だから新興宗教団体では病気が治った人のほうが威張って、健康体で病気しないという人の方が、なにも人に眼を見晴らせるような体験がないので小さくなっているという現象が実際に起きている。
病気が治ったということよりも、病気もせず何ごともなく毎日まいにち無事で暮らせることがどんなにありがたいことであるかということに気づかないと、なにか変ったことがないと喜べないという心の状態では正しい生き方をしているとは言えないし、正しい信仰とはいえないのである。
病気をしている人よりも健康である人の方が多い、その健康である人がどのようにして心を大きく広く豊かにして魂を向上してゆくかを宗教は本来説かなければならないのである。
 
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