心が変われば病気も治る

『おかげ信仰の誤り』
とある教団に入会していた方の話ですが、いつも心に疑問と葛藤があり、それを聞くこともできる雰囲気になく自身の悩み苦悩も何一つ改善されることがなかった。その方は教団を退会した。

その方の悩み、苦しみの話の内容を聞いているとひとつのヒントがはっきりと見えてくる。

一言でいうと自分が『自分が正しい』のである。その正しさが強すぎるがゆえに自我となってしまい、相手の反感を買っているのだった。入信していた教団ではそのことに対する指導は一切なかった。

つまり自分を押し通した生き方をして自分を苦しめてきたことに本人が気づいていなかったのです。

何度となく自我の修正をするように具体的な指導を繰り返いしていく中で徐々に心の癖も良い方向に改善されて楽な生き方ができるようになったのである。

苦悩ばかりではなく肉体の病気も、うつ病や、パニック障害、摂食障害(過食症、拒食症)などの心の病も心の癖(傾向性)を変えることで改善もできるし、治ることもできるのです。

「マンダラのお蔭だ」、「日蓮上人のお蔭だ」といい、あるいは「ご本尊のお蔭だ」といい、あるいは「○○大神のお蔭だ」といい、どこかにお詣りしている人達はそこの神さまのお蔭だとそれぞれ一所懸命に信仰しているわけですが、実は病気が治ったのは神さまのお蔭でもなければマンダラのお蔭でもないのです。

ただそれらのものは心を変えるきっかけになったにすぎないのです。それらをきっかけにして心が変ったから病気が治ったのです。

一つの教団に入会してそこで病気が治るとそこの信仰のお蔭だとありがたくなって一心になり、そこの信仰で治ったのが本当の治り方で、他の教団の信仰で治ったのはウソだと多くの人は思うようになって、他を排斥するようになる。

しかし、病気が治るのに、ホントの治り方とかウソの治り方というのがあるのだろうか。医者で治ったのがホントの治り方で、宗教で治るのはウソの治り方だというのがあるのだろうか。

どこでどうして治ろうと、治ったという事実はすなおに認めるべきです。

うちの教団で治ったのがホントで、他の教団で治ったのはウソだとかいうような過った差別の心を持ってはならないし、心の病気が治るのは事実だから事実は事実としてすなおに認めることが正しい信仰の一つでもあるだろう。

但し、一つの病気が治ったからと言っても、心の病気が治ったとはいっても、真実ではない教義や、人間の都合で創作した虚偽の法を説いて信者を路頭に迷わすことではいけないのだが、実際はそのように過った方向に信者を扇動している教団が多いのは悲しいことである。

『病気は神が治すのではない自分が治すのである』
神が治すのであったら、その神を拝んだ人はみな治らなければならないということになりますが、それぞれの教団でも一所懸命に拝んだが治らなかったという人が沢山おります。

どこの教団でも治った人の体験は華々しく宣伝しますが、治らない人が沢山あることは絶対に発表しません。

治った時は「ここの神さまのお蔭だ」といって神さまのお蔭にして「あなたの信仰が自分で治したのです」というようなことは絶対にいいません。

その代りに治らなかった人に対してそれこそ厳しく吐き捨てるように「あなたの心が悪いのだ」「あなたの信仰が悪いのだ」「あなたの信仰が足りないのだ」といいます。

本当に人を救う愛があったらそんなに吐き捨てるようにいわないで、さらにもっと具体的に分かりやすく優しく、どうすればいいかを教えるのが本当の宗教指導者ではないだろうか。

治った時だけそこの神さまや、教祖のお陰にして治らないと本人のせいにするのは矛盾でしょう。

神さまのお蔭だといっていて治ったり治らなかったりするのであれば、そんな神さまは神さまという資格はありませんし、邪霊のする一時の気まぐれ現象です。

神さまが病気をつくったのなら神さまに頼めば治して下さるのでしょうか。

よくよく考えたら分かることですが、病気はウイルス感染を除けば、自分の心の悪習慣や、肉体的条件や、不摂生でつくったのであって、神さまがつくったのではありません。

人間を病気にして苦しめるという神さまなどない筈です。

本来は病気を治すのに神さまを拝む必要も、教祖に依存する必要もないのです。

『心が変われば病気も治る』
精神身体医学という学問はアメリカで発達したものです。

病気は心で起るのだから心を変えれば治るということが医学的な研究の結果明らかになってきたのです。

アメリカで精神治療を受けて治った人達はとなると、創価学会でも立正佼成会でも生長の家でも真如苑でも、阿含宗の信者でもなんでもないのです。なんの信仰をしなくても治っているのです。

例えば、現代仏教の開祖である2500有余年前のお釈迦さまは中道調和の道、即ち、いかにして心を病まず安らかにするか、心を安らかにすれば病気にもならないという正しい生き方の道を法として説かれたのであって、ご本尊を拝みなさい、私を崇拝しなさいとは一言もいっていないのです。

仏教でいうところの正法とは正しい心のあり方、執着しない生き方、執着の離れ方を説くのであって、○○の神さまを拝みなさいとか、教祖を崇拝させるようなことは説かないのです。

どこの教団の信仰をしていてもが治らなかったという人達は、心の悪い傾向性(癖)心が変らなかったからであって、信心がたりないということではありません。

従って、私たち人間は本来どこの教団にも所属することはいらないし、どこの教団の会員にならなくても、心の正しいあり方を知れば病気になることもないし、また病気いたとしても自分で自分の心を修正して治すこともできるのです。

医者や薬が病気を治すのではない。
最初のお断りしておきますが、医師や薬を否定するつもり毛頭ありません。私自身も人々の健康に携わる立場にありますし、医学の一端を担っている人間です。重篤な疾患があってそれを外科的手術によって大きく改善できる点については現代医学の最大の強みであり、貢献できることは確かです。
多くの人は医者や薬が病気を治すと思っていますが、しかし、それは違うのです。人間には病気になった時は自然に病気を治す「自然治癒能力」というものが与えられてあります。
医者や薬は自然治癒能力を高める補助的な役割をするだけのことです。このことは医学の教科書の第一頁に書いてあるのです。
だからどんな名医でも、病気を治そうとする意欲のない患者、あるいは病人になっている方が都合がよいと思っている患者は絶対に治すことはできないのです。
生まれつきの持病で治らないとか、若い時からの持病で治らないという人達は自分で治らないと思っているから自分で自然治癒能力を働かさないようにしているのであって、自分の肉体に内在する自然治癒能力を信じて「必ず治る」という心を奮い起せれば治ってゆくのです。
大分昔の新聞に福岡大学医学部第一外科、志村秀彦教授の医療雑感が載っていたことがあります。その時の言葉です。
『生命の仕組は精巧で、治る力は医師の力をはるかに超える。医者は患者のそばにいて邪魔者を払いのけ、力づけるだけですむことが多い。
やたらに手を加えたり、投薬したりする過保護が、逆に治る力を弱まらせる結果になりかねない。
患者の身になって、苦痛、障害を感じ、陰に陽に介抱し、力づけ、患者自身の治る力を存分に発揮させるように心を配るのが医者の本分。生きる喜びを患者に味わってもらうことを願うのが医者の生きがい。』
この志村秀彦教授の言葉に医療現場にある人間に必要な謙虚な姿勢というものを再確認する思いがします。
心が病気をつくるのであれば、健康体の人は病気にならないように心のあり方に気をつければいいし、病気だという人は心を改めれば病気は治るということになります。
講談社とマイヘルス社共同発行の「別冊壮快」という雑誌があります。その中で「心で病気を治す事典」、副題「心の持ち方ひとつで現われるすばらしい効果」の中の目次だけ並べてみましょう。
「病気を起こし病気を治す心の不思議」
自治医大教授  宮本 忠雄
成人病の大半は心が原因で起る。成人病とは、高血圧症、動脈硬化症、心臓病、胃潰瘍、糖尿病、肝臓病、リウマチ、喘息、痛風、神経痛、ノイローゼ、うつ病、ガン等。
ガンだけは例外だという人がいるが最近ではガンの精神療法という言葉が生まれている。たとえガンになっても最後まで希望を捨てず、心を明るくもたせる言葉がいかに大切かである。
「子供も大人も心が原因の病気が激増中」
愛知医大教授   久徳 重盛
人間の基礎のできる三才前後に、ひずみのある基礎がつくられることが諸々の病気の原因となる。等々。
人間の病気には肉体的なものと精神的なものがあります。しかし、この震源地はひとつである。全ては心から発振された結果によるものである。
きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。ランキング参加しております。、下のバナーをポチッとクリックして頂ければありがたいです。